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五年目のひとり

 投稿者:あいどん(管理人)  投稿日:2017年 5月19日(金)06時56分39秒
  「放送人の会」主催、グランプリ特別賞を「五年目のひとり」が受賞したとの情報が入りました。
まだ確認出来ておりませんが、取り急ぎ。
 
 

サルベージ情報⑩の③「夜からの声」

 投稿者:あいどん(管理人)  投稿日:2017年 5月13日(土)18時27分23秒
  これでとりあえず一件落着というところだったのでしょう。

しかしそんな苦労の果てにあの施設の火事が起こるのです。
迎えに行く車中で女は逢いたいという想いをつのらせています。



ところが舅は、当然ながらそんな女の期待に応える存在ではなく痴呆の彼方にいてがっかりします。




女は、帰りの車中で降りたいと騒ぎ始めた舅を車から降ろすと、平手打ちをしてしまいます。

私が分からないの?私と逢って嬉しくないの?

そんな姿を見て夫は本当の意味で妻と父の「歳月のある関係」に気付きます。
虐待よりも深いショックを受けます。
そしてそうさせてしまった自分の器量、自分の責任。






疲れ果て、本当に疲れ果て家に帰り着いた二人は酒を呑みながら変なことに気付きます。

隣室で寝ている舅の鼾がおかしいのです。
でも二人は黙って酒を呑みます。






女はこれから始まる介護の人生という重い課題に圧倒されており、男は戦後を逞しく生きて来た輝かしい父はもう存在しないのだという無念の思いの中にいます。

今の父の状態はこれまでの父も台無しにしてしまう。そんな屈辱の中で生きていることに何の意味があるのかと男は思います。










男の記憶では、その時父の枕元に立ってしまっていたそうです。



そしてごめんよ父さんと父の顔を両手で覆ったそうです。
一瞬鼾は止まりますがやがて復活します。

つまり一瞬にせよ男は父を殺そうとしたのです。
女はそれに気付きながらも何もしなかった。







それが二人の、祖父が死んだ夜の息苦しい記憶です。









やりきれぬ記憶です。









その話を聞いた息子はこう言います。
それが何だっていうんです。大げさに過ぎないかな。ひそかな願い通りに祖父が死んだということでしょう。自分を責め過ぎるのは馬鹿げている。それで自殺するなんて。









真司は言います。
自殺は別の話だと。
電話でお父さんは希望を語っていた。妻と父の間にどういう感情が流れていても痴呆の老人と介護する人間の話だ。それはある意味ありがたいことで、めったにない幸せだったのかも知れないと言っていた。









だったらどうして父は死んだんですと息子は聞きます。








真司は分からないと答えます。
生きている人間には結局自分で死んで行く人間の気持ちは分からないんだ。傍目には死ぬことはないという理由で人は死ぬんだよと言います。







あなたはボランティアでいろんな人の話を聞いているからそんなことが言えるのだろうけどと息子が言うと、真司が言下に否定します。

ボランティアで様々な人の悩みを聞いているせいではないと真司は言います。
そこで真司は初めて自分の心情を言います。何故ボランティアなどという柄にもないことを始めたかということを。

毎夜電話をかけてくる、そのような人々に死ぬなではなく、自分自身に死ぬなと言いたかったからだよと真司は言います。切なく自分の孤独を吐露します。










驚くのは真司の女房です。

「ジョーダンでしょう?あなたにどういう死ぬ理由があるって言うの?B型でノー天気な人間が」




真司は「ほらね、一笑に付されてしまう。それだけでも死にたくなるってもんだよ」と苦笑します。
「あなたは自殺するなんてタイプじゃ全然ないの。笑うしかないわよそんな話」と言いつのる女房。










あ、あの。


またすみません。


B型の部分は笑えたと思いますが、お読みの皆さん、すっごく深刻な展開のお話のように感じられているのではないでしょうか?


いえ深刻は深刻なんですけど違うんですねえ、舞台は終始笑いに満たされています。



いえ、困っています。
あらすじを書いているとこういう事にどうしてもなるんです。



物語の中で展開するふくよかな感情や人々の思いというのは、あらすじだけでは表現できないんですね。










この部分にしても義父の「細かなことを聞こうじゃないですか。細かなことで私たちは生きてるんだ」とか「聞かなくちゃいけない!こういうことこそ聞かなくちゃいけない」なんて台詞の時も「お父さんうるさい!」とか「聞いた風なこと言うのやめて」とか女房や娘のツッコミが飛び客席は笑いの渦です。そのニュアンスはもう観ていただく以外にないということになってしまう。









と、言い訳しても始まりませんね。




続けます。










そんな真司との会話が一段落すると、女は「良かったわ」と言います。
いろいろ話せて良かったと女は言うのです。
女はやはりある程度回復しているのでしょう、「事実」を受け止めたようです。




真司は「ご主人は妻に感謝している、ありがとうの一言が述べたかったと仰っていました」と言います。
女は「それは嘘ね」と苦笑します。
「嘘じゃありません」と真司は重ねて言いますが、女は「死んだんだもの。ただありがとうな訳ないでしょう」と涙ぐみます。










何故死んでしまったのか。

それは夜の彼方の出来事。

知りえぬ世界。










突然真司が「ああ!」と叫びます。

驚く一同の前で更に「ああ!ああ!ああ!」と叫びます。



そして自分の女房が研修のリーダーになってうかれている姿を誹謗し始めます。
女房は何よ急にと言いますが、真司は不満をどんどん言います。
社長はお前の肉体を狙っているんだとか、普通では言えない薄っぺらで滑稽な嫉妬心をどんどん言います。
女房は呆れます。








つまり女や息子に恥部を散々さらけ出させておいて、自分たちは聞いているだけでは申し訳ないだろうという真司の気持ちです。
こちらも思いっきり恥ずかしい本音をお見せしなくてはならないのではないかというヘンなバランス感覚。
自分だけではなく女房や娘や義父にも言え言えと、真司は煽ります。










山田ファンなら「それぞれの秋」最終回の「告白大会」を想起されるでしょう。







ただこの舞台での「告白大会」は爆笑に包まれた「本音大会」です。

夫婦のすれ違い、ちょっとした親子の憎悪、義父と真司の家庭での滑稽なぎこちなさ、それぞれの小さな口惜しさ淋しさ、などなどが溢れかえります。









そしてある程度出たところで終りにしようとなります。

言いたいことはまだまだ一杯あるが、ほどほどのところで深入りしないほうがいい。「本当のことは怖い」と言います。

そう、本当のことは怖い。










最後に何故か息子の色男ぶりに執着する女房の熱意が功を奏し、娘と息子のおつきあいが始まるという爆笑のオマケもついてしまい・・・・山田ドラマらしく一同にこやかにお茶など飲んで、解決ではないけれど、ひとときの人間の「和」を見せて幕が下ります。








おしまい。










作    山田太一
演出  木村光一

出演 風間杜夫 (本宮真司)

    西山水木 (女房 本宮加代)
    佐古真弓 (娘  本宮亜弥)

    花王おさむ(義父 森沢郁夫)

    倉野章子 (女  藤井頼子)
    長谷川博巳(息子 藤井柾)


地人会第95回公演 紀伊国屋ホール 2004.9.21~10.2






 

サルベージ情報⑩の②「夜からの声」

 投稿者:あいどん(管理人)  投稿日:2017年 5月13日(土)18時26分27秒
  さて二幕目の幕が開くと朝のリビングで、明るい雰囲気です。

でも決して明るい気持ちの真司ではありません。









あれから二ヶ月ほど経ち、女はすっかり回復し、快気祝いを持って何故か真司を訪ねて来るのです。

でも、どう考えても快気祝いを持って来られる間柄ではありません。おかしいと思います。







義父は言います。

念を押しに来るんじゃないか。ご亭主があんたに何を言ったか気にしているんだ。あんたがいる限り不安が残る。治るもんも治らない。舅を殺したことは忘れてくれと言いにくるんじゃないかと。



真司は怖いこと言わないで下さいよ、殺人じゃないって警察の検死でもはっきりしてるじゃないですかと言いますが、そんなことあてになるもんかと義父は身も蓋もないことを言います。




それにつられるように真司は「ご主人も似たようなことを言ってたんです。父親を殺したって」と語り始めます。「酷く酔っていてはっきりしないけど、父親のベッドに行ったような気がするって。父親のベッドを見おろしていたって・・・」と言います。







守秘義務を破りそうになる真司に義父は聞くことを拒みます。



真司は語るのをやめますが一体真司はどんな言葉を聞いたというのでしょう。
夜の向こうから声は何を語ったのでしょう。




ひとり重い荷物を背負ったまま真司は女とその息子の訪問を受けます。










人が変わったという言葉があるけど、これほど変わるのかと言うほど明るくなった女は薬の効用を説き元気を強調します。

一同は戸惑いながらもその元気を喜びます。




女は最近太極拳を始めたそうで、あるポーズをすると不安な悩みはポイ、ポイ、ポイと捨てられると明るく語り、嫌なことは全部忘れましたと楽しそうに言います。










その余りに見事な元気ぶりに真司は引っ掛かるものがあります。


忘れていいのか!
嫌な事は忘れていいのか!
それで元気になったってそれは本当の元気じゃない!










真司は突然目の前にいる女や息子や家族の明るさを壊すように語り始めます。

自殺した男の言ったことを。



皆は驚き、女はやめて!と叫びますが真司は止まりません。










自殺した男は一体夜の淵から何を真司に語りかけてきたのか。

そして真司は何を感じ取ったのか。






まず真司は自殺した男の立場から見ると、女が舅を介護するなかで老人虐待があったことを語ります。








しかしそれはすぐに女が否定します。








それはある意味虐待よりもっと面倒で複雑な出来事だったからです。
細かな細かな経緯があったのです。
女が懸命に忘れようとしている綴れ織りのような出来事。









言ったところで誰が分かってくれるというの、という投げやり気味の女に義父が促します。

「細かなことを聞こうじゃないですか。細かなことで私たちは生きてるんだ」








女は言います。
「舅が好きだったの」と。
「だからと言って何もありゃしないけど、大柄で男っぽくて余計な口をきかない舅が主人よりいいくらいだった」と続けます。









息子は「そんなこと聞きたくない」と叫びます。

しかし義父が言います。

「聞かなくちゃいけない!こういうことこそ聞かなくちゃいけない」










女は苦渋の表情で、それでいて何処かうっとりするように語ります。



「ボケても人柄は残っていたわ。一緒に町を歩いても河原を散歩しても、徘徊して交番に引き取りに行ったりした時も嫌じゃなかった、楽しかった」とまるで介護の内実を恋愛物語のように語ります。


夫は仕事に追われていたため自分の苦労を察することも出来ず、濃密な関係がそこに否応なく築かれて行き、家庭は舅と嫁の二人だけの世界となったと女は語ります。




しかしやがて舅の老化は進み、人柄の匂いも消えて女は情けなくなります。





ある時女のことも分からなくなり、頑固に家から出ようとする舅を女は思いっきり引っ叩きます。


すると奇跡が起こります。
ほんの短い間ですが舅の目に力がよぎったのです。
女を誰だか分かっている目。
以前の男っぽい舅の目。




女は思います。
何か強い刺激があれば舅が元に戻るのではないかと。
女は叩きます。もっと強く叩きます。もっともっと強く叩きます。

でもやめます。
愚かなことです。

ところがある日舅が叩いてくれと訴えてくる。
叩くと目が生き返ります。

あの目が。

それから舅はせがむようになります。
女はもうためらいませんでした。
掃除機の柄でもブラシの柄でも殴りました。










叩くと舅が喜ぶと思えるのでやめられなくなり、私も喜んでいたのかもしれないと女は自己の心の奥底を述懐します。










それが、虐待と夫が思ったものの内実です。
女の介護のある姿です。







そんな極限状況を遅ればせながら夫は気付き、貯金をはたいて祖父を施設に入れます。







女は介護からやっと開放されます。



 

サルベージ情報⑩の①「夜からの声」

 投稿者:あいどん(管理人)  投稿日:2017年 5月13日(土)18時23分31秒
  「夜からの声」

地人会第95回公演 紀伊国屋ホール 2004.9.21~10.2

作   山田太一
演出 木村光一

出演 風間杜夫    西山水木 佐古真弓 花王おさむ 倉野章子
      長谷川博巳





これは、メモと記憶をもとにした「再現」です。
独断、勝手な要約が多々あります。
ご了承の上お読みください。









ある日曜日の朝。

マンションの居間でくつろぐ本宮真司(風間杜夫)に一人の中年女性が訪ねて来ます。





女性は最初タウン誌の編集者と言いますが、取材が始まってもメモもとらず、編集者にしては挙動がおかしいと真司は思います。
しかも真司が「話し相手コール」というボランティアをしていることを知っているので更に妙に思います。








そのボランティアは孤独な老若男女のために二十四時間対応で電話の話し相手になってあげるというサービスですが、当然守秘義務があるし自分がそのようなことをやっていることも口外してはならないと定められているのです。




なのに何故この女性は知っているのか。
まあスタッフの入れ替わりもあるし、そのような流れの中から漏れたのであろうかとも推測するのですが、女が「三月十九日にあなたは誰と話しましたか?」と実に詳細なことを聞き始めた時に単なる取材ではないことに気付きます。





女は編集者でもなんでもなく、その三月十九日に真司が電話で話をした相手(男)の妻なのだと言います。
戸惑う真司に、女はヒステリックに何を夫と話したのかと追求します。
真司はそんな事実はないとしらをきりますが、女は「夫の日記に書かれていたから間違いない」と追及の手を緩めません。










真司は「もし旦那さんが『話し相手コール』に電話されていたにせよ、その相手が私であるとは限らないでしょう」と反論しますが何故か女は確信を持っており、更に真司にとって驚愕すべき事実を語ります。






三月十九日。つまり「春分の日」の前日に、女の夫はその電話をしたあと飛び降り自殺を図ったというのです。
飛び降りたのはもう翌日の「春分の日」になっていたほど深夜だったそうですが、その時妻もたまたま起きていてすぐに気付きました。










その時の飛び降りた音。




どすん。






その鈍い音を女は今も鮮明に覚えており、女は「夫の自殺」という耐え難い事実の淵から、真司に向かって懸命に叫びをあげているのでした。










「何を話したのか。夫と最後に向き合った人の話を聞きたい。夫は生きたいと思っていたに決まっている。なのに何故死んだのか。あなたが何か言ったんだ」


そう言って女は食い下がり、真司への疑惑を溢れさせますが、真司は懸命にしらをきり通します。






明らかに常軌を逸したと思われる女性は、とにかく如何に否定しようと、真司が電話の相手だということを確信すると、何故かその日は帰ります。

真司はホッとしつつも、胸の中に事実が重く残ります。





自殺をした人間と最後に話をした自分という重い事実が真司の胸に残ります。










こうして、夫に自殺された女と、死の直前に、偶然言葉を聞いた男の物語が双方の家族を巻き込んで展開します。


かなり暗く厳しい内容です。
が、それにも関わらず展開はまったくコミカルで、終始平凡な家庭の日常性を逸脱することはありません。










真司の奥さんは居酒屋のパートタイマーの境遇から研修のリーダーに出世し、夫の給料より高くなりそうだと活気に満ち溢れ、その日の朝も、社長がポルシェでお迎えにわざわざ来るところなのでうるさい位にハイテンションです。





それが面白くないので「社長に下心があるに決まっている」と真司がくさすと、「あら三十代で若い子にもてもての社長さんよ、そんなわけないでしょう」と妻に言い返され「年上好みもいるさ」などと真司は強弁し、女房をくさそうとしながら女房の魅力を賛美しているような滑稽な状態。








もう一人の家族である年頃のひとり娘は、独身貴族を謳歌していると言うと聞こえはいいけど、恋人のいない境遇をちょっぴり淋しく、いやかなり淋しく?享受しており、でもまあ呑気な青春を楽しんでいる状態。

そんな家庭で真司は女性たちほどの活気も精彩もなく、会社の仕事を自宅に持ち込み休日だというのにノートパソコンをぼつぼつやっている。










家族は真司に聞きます。自殺した男から何を聞いたのか。自殺の理由を知っているのかと。
しかし真司は守秘義務を盾にして喋りません。








女房は業を煮やして「だからボランティアなんてしなきゃいいのよ、人の世話してる場合じゃないでしょう。結婚して二十七年にもなるのに私の父には心を開かないで、他人にはぺらぺら喋って妻にも娘にも大事なことは言わない。なによそれ」などとぞんざいに言われ真司は形無しです。








真司は何か真相を知っているのでしょうか?
分からぬままに、家族はその女が今後も関わってくるのではないかという不安を広げます。





その不安を吹き払うかのように女の息子が数日後に現れます。
息子は、母が鬱病で入院したことを告げ、既に抗鬱剤の効き目で快方に向かっていると言い、母の失礼を丁寧に詫びて去ります。



そのあまりに礼儀正しい青年の一件落着の強調ぶりに、真司やたまたま居合わせた真司の義父はかえって不信感を持ちます。


夫の自殺という重い出来事をそんな数日間で克服できるのか?

いくら抗鬱剤のいいものが開発されたにせよそんなに簡単に治るのか?

真司の義父は妻に先立たれた淋しい気持ちも手伝ってこう言います。






「鬱は薬で治るみたいなことを言い過ぎる。そんなバカな話はないよ。薬で離れて行った恋人が戻ってくるかい?死んだ女房が生き返るかい?そんなバカな話はない。薬で治るなんて、人の悩みをバカにした話はない」


女性は本当に快方に向かっているのでしょうか?
自殺の真相はつかめたのでしょうか?
そして電話で男は何を言ったのでしょう?






数日後女性は病院を脱走し再び闖入して来ます。

そして叫びます。

「私が祖父を殺したの。お父さんが殺したんじゃない」と。






飛び降り自殺の前に祖父が心不全で亡くなっているのですが、それを私が殺したんだと女は言っているのです。





一体何が起こったのか。

そこへ女性の息子も現れ「そんなことはない」と母の言う事を強く否定します。
祖父は心不全で死んでおり、警察の検死結果でも証明されている、なのに何故その様なことを言うのかと息子は女をなじります。










祖父の死というのはこういうことです。

女と自殺した夫は、少し前になけなしの蓄えをはたいて痴呆の祖父を老人ホームに預けたのです。
女は長年の介護疲れで体を壊したこともありホッとしていたのですが、不幸なことに老人ホームが火事になり祖父は焼け出されてしまいます。




その焼け出された祖父を車で迎えに行き、渋滞で長時間の行程でしかたなかったとはいえ、無理な体力を使わせた故か、その夜に心不全で亡くなっているのです。

火事のショックと長時間車に乗って疲れてしまったこと。
それが心不全の理由であろうと息子は言います。
だから母や父がどんな罪悪感を持つにせよ、それは何の関係もないんだと。

父の自殺にしても、人が自殺する理由なんて本当のところは分かりはしない。遺書でもあればともかく分かるものではない。
そう息子は強調します。



「忘れよう」と息子は言います。「おじいちゃんもお父さんもいないんだ。お母さんは生きて行かなきゃいけないんだ、後ばかり見ていてはだめだよ」と。
その言葉に真司も同調します。
「そうですよ忘れて元気にならなくちゃ、やなことは忘れて元気にならなくちゃ」






前向きを強調する一同の励ましの中で、薬を飲まされた女の意識の混濁とともに一幕目の幕がおります。



そして二幕目があがると・・・。










あ、こんなふうに書いていると、まるでサスペンスドラマのようですが、舞台そのものは笑いの連続です。










こんな深刻な事態なのに真司の女房は、息子のいい男ぶりに色めき立ち、自分の娘の結婚相手にどうだろうかなどとおせっかいをやいているし、娘はやめてよなどと拒否しながらも満更でもなく、真司の義父は娘家族に邪魔にされているのかなあという疎遠感のなかで遠慮がちに事件に関わってきて、真司との義理の関係がちょっとフランクになるような局面があると過剰に喜んだりするという按配で、なんとも賑やかにお話は進行していきます。







どんな深刻なことも庶民の日常という視点に立てば、このようなものとして出現するのが本当のリアリズムなのかも知れません。






 

今日から「山田太一展」

 投稿者:あいどん(管理人)  投稿日:2017年 5月13日(土)18時18分46秒
  既報通り、

早稲田大学芸術功労者顕彰記念早稲田大学芸術功労者顕彰記念「山田太一展」が始まりました。

会期:2017年5月13日(土)~ 8月6日(日)
開館時間:10:00-17:00(火・金19:00まで)
休館日:5月17日(水)、6月7日(水)、21日(水)、7月5日(水)、19日(水)
会場:演劇博物館1階 特別展示室  入館無料
主催:早稲田大学演劇博物館、早稲田大学文化推進部、演劇映像学連携研究拠点
協力:日本放送協会、日本テレビ放送網株式会社、株式会社TBSテレビ、株式会社フジテレビジョン、株式会社テレビ朝日、株式会社テレビ東京、一般社団法人日本脚本アーカイブズ推進コンソーシアム。

まだ私は行く日程が定まってはおりませんが、どなたか行かれたらレポートいただけると嬉しいです。



さて、また「サルベージ情報」を次に掲載したいと思います。
まだ、私が「再現」に情熱を燃やしていた頃で、舞台の要約です。

 

戦線復帰

 投稿者:あいどん(管理人)  投稿日:2017年 5月12日(金)07時40分3秒
編集済
  >なつかしいやり取りの再現、ありがとうございます。
涙、ちょちょぎれます。


おや、◎◎さんですね。

HPでもそうでしたが、過去のBBSでのやりとりは必ず仮名ハンドルネームにして載せています。
それは、過去の発言を、その人が今でも保持しているとは限らないと考えているからです。

でも享美さんはぶれることなしですね。



スタート時のやりとりは楽しい思い出です。
このBBSが何か月もつか分からなかった、不安な手探り状態を今も懐かしく思い出します。

「やすらぎの郷」は毎日20分とういう放送スタイルが、あの銀河テレビ小説を彷彿とさせ、毎日の憩いです。
ベテラン俳優たちが、絶妙のバランスでやりとりをするコメディ。あてがきならではの存在感と皮肉めいた台詞が面白い。
コメディというスタイルが、倉本聰観念を脱色さえることになっていて、これもまたいいドラマバランスになっていると思います。

それでも倉本臭は消えませんが、そのあたりが脱落者発生の原因ではないかと思います。
享美さんも「なれると美味しいくさやの干物」の精神で、戦線復帰願えればと思います。
 

やすらぎの郷

 投稿者:享美  投稿日:2017年 5月 9日(火)23時37分0秒
  なつかしいやり取りの再現、ありがとうございます。
涙、ちょちょぎれます。

やすらぎの郷、私は残念ながら脱落しちゃったんです。

浅丘ルリ子と石坂浩二が奇跡の再共演!となれば、「2丁目3番地」ファンとしてはなにがなんでもみるべきなんだろうなぁと思いつつ、もう一つ乗り切れず、捨ててしまいました。
でもあいどんさんの下の書き込み文を読んで、ああ、やっぱりそういう場面が用意されてたのか(「2丁目3番地」は因縁のドラマですもんね、そういう遊びがある可能性は十分に高かったのに・・・)、残念がっております。

今からでも戦線復帰した方がいいかな。
すべきか。
浅丘ルリ子と八千草薫の、何十年にわたってそれぞれにすばらしいドラマで私を楽しませてくださった名女優の生きざまを見届ける意味でも、見るべきでしたね。
なんかもったいないことしちゃったかも。
年取ってこらえ性がなくなったせいでもあるんだけど。
明日からでも戦線復帰いたします。

 

呪い揚げ

 投稿者:あいどん(管理人)  投稿日:2017年 5月 3日(水)07時54分12秒
編集済
  倉本聰の「やすらぎの郷」で「呪い揚げ」というものが出て来ました。




これは石坂浩二と浅丘ルリ子が結婚するきっかけとなったドラマ「2丁目3番地」に出て来たネタです。
石坂浩二と浅丘ルリ子はどんな気持ちで今回演じたことでしょう。興味津々です。




「ドラマファンBBS」がスタートした時、私は「2丁目3番地」を取り上げました。





そこで、「ドラマファンBBS」におけるワタクシの第一声と、それに続くお二人の書き込みを「サルベージ情報番外編」としてお届けしたいと思います。
何故「番外編」かと言いますと、スタート時の過去ログはHPでも公開していなかったので、今回まさしく「闇」の中から引っ張り出してきた形です。


おそらく多くの人が「ドラマファンBBS」は山田ドラマの話から始まったのではないかと思っておられるのではないかと思いますが、実は倉本聰から始まったのです。
では「呪い揚げ」のお話を。


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2丁目3番地 投稿者:あいどん(管理人)  投稿日: 7月10日(火)18時16分31秒


えー、とても安易な動機で掲示板を設置します。
コンセプトは「ドラマならなんでも語る」それだけです。
そして語り尽くしたら、何ヶ月後かに掲示板を閉鎖します。
よろしくお願いいたします。

さて、最初に語りたいドラマとなると、ありとあらゆる熱情を押しのけて「2丁目3番地」ということになります。若い人は知らないと思いますが、ちょっとこの時期のドラマ語る人あまり見ないんですよね。
昔のドラマっていうと、すぐ「ダイヤル110番」「事件記者」「七人の孫」なんてところに行っちゃって、そのちょっと後になるとなかなか誰も語ってくれない。盲点じゃないかなと思います。

「2丁目3番地」は私が初めて倉本聰という作家を発見したドラマで、TVドラマというのはこんなに面白い世界を描きうるのだ、と驚嘆した作品です。
「マスオさん」状態の石坂浩二がおんな中心の家庭で孤軍奮闘する姿は、優れて今日的であり、現在という視点から見てもかなり先取りと思えます。

しかも、そこに描かれている世界は、スキャンダラスな素材は一切なし、洗濯機の中で、自分のパンツがパンティの群れの中でぐるぐる回ることをとても平吉(石坂浩二)が無念に思うというような、そんなことが物語になるのかと思えるような素材ばっかりだったのです。
もっともライターは倉本氏だけではなく岡本克巳、布施博一なんて人も書いていたと思いますが、やはり倉本氏のホンが群を抜いて面白かったのです。

山田太一氏の「パンとあこがれ」を夕刻の一時間枠再放送で見た頃と、ほぼ同時期に見たと記憶しているのですが、二人の「日常を描く」という姿勢に出会ったことが、私をTVドラマに没頭させる契機となったのです。


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祝・サイト開設 投稿者:◎◎  投稿日: 7月11日(水)09時33分14秒
管理人さんのサイト開設ご挨拶の直後の書き込みは、このサイトの今後の発展を占う上でそれに相応しい方のご登場をお待ちすべきだとは思いましたが、ここは露払いの意味もこめて不肖私がお祝辞がてら、ドラマへの思い入れなど語らせていただきます。

中学の頃から映画は結構見ていました。
表面づらは結構優等生然としてましたが、学校サボって映画館にこっそり出入りなんて事もしていました。映画ファンというのは、なんか一目置かれるところありますよね。

それに引き換えテレビ好きというのは何か軽んじられる。中学生の私は、学校をサボって映画館に出入りするという映画ファンの仮面の下で実は本音のところではテレビのドラマの方がおもしろいなと感じていたのです。

でも、振り返ってみるとあの頃から30年、テレビドラマファンであることを積極的に世間に公言したことは一度もないように思います。自覚もなかったのかもしれない。たとえば、お見合いの席などで、ご趣味は?と問われて、映画鑑賞というのはスラリと答えられるけど、TVドラマファンですって言ってもあまり評価されそうにないですもんね。

言うなれば、これは私にとってのカミングアウト。実はテレビドラマが好きなんです。高校のときは映画研究会というクラブに入ってましたけど、TVドラマ研究の方が私には向いていたでしょうね。そんなクラブがあったら、「2丁目3番地」先週のセリフを解体分析するなんてことを嬉々としてしていたような気がします。

確か美容院の隣が産婦人科で津川雅彦が院長先生、兵ちゃんこと石坂浩二は妻のお産を担当した津川雅彦の存在が気に入らなくて、何かというとつっかっかっていましたよね。すごくうぶだった15歳の私はお産のメカニズムや、出産時の女性の体位について殆ど知識がなくてこの兵ちゃんの津川雅彦に対する敵意?が良くのみ込めなかったのを思い出します。




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呪い揚げ 投稿者:あいどん(管理人)  投稿日: 7月11日(水)20時21分02秒
◎◎さん早速書きこんで下さって有難うございます。
津川雅彦のシーンはかなりおぼろげなんですが、石坂浩二の立場をますます脅かす存在だったなあという記憶があります。

やっぱり、人って同じドラマ見てたのに覚えてるところが違うんですね。
そこが狙いなんですよ、この掲示板は。
同じドラマを見てたのに、違うポイントを鮮明に記憶している。そんな人々がある程度記憶を寄りそわすことが出来れば、思い出のドラマの全体像がもっとつかめてくるのではないか、そう思うのです。もっともこのドラマ、脚本出てますから羅針盤はありますけど、でも心に残ったものはまた別です。


私の記憶またちょっと書きます。

「2丁目3番地」のディレクターにお会いする機会があり、話を伺ったことがあります。

ドラマの中で「呪い揚げ」って出てきますよね。囲炉裏を囲んで、ナスだかなんだかを割り箸でまるごと刺してぐらぐらと煮え立った油の中に入れて食うというやつ。ナスを油に突っ込む時に、自分の憎い奴の名前をナスにつけて、呪いをこめて揚げるってやつ。

確か黒沢久雄は「高際和雄、高際和雄」って叫んで何本も突っ込んでましたよね。佐野周二あたりが「おい、ぼちぼち高際いけるぞ」なんて言ってるのがとても滑稽なんだけど迫力ありましたよね。そしてそのナスを食ったら、もう絶対うらむなよ、と一言いうのもよかったですね。

「こういう食べ方って本当にあるんですか?」とディレクターに聞きました。
私は「闇鍋」みたいな感じで、あるところにはあるのではないかと想像していたのですが、全部倉本氏のでっち上げだそうです。
しかし、このドラマ以後TV局の中では大流行したそうです。凄かったそうです。「流行りましたよオ」とディレクターがため息ついてたくらいですから。

みんな一体誰を呪ってたんでしょうね、怖い怖い。




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Re.呪い揚げ 投稿者: ◎◎投稿日: 7月11日(水)23時52分50秒
呪い揚げなんて言葉は全く記憶に残ってませんが、黒沢久雄と言われてそのシーンを朧に思い出します。

これは愉快そうですね。呪うところまでは行かなくても、(本当に心底憎悪している人間だったら私なら食べられないな)瞬間的な嫌悪感みたいなものを呪い揚げなんていう偽悪的なネーミングでことさらに大げさにして面白がる、一気に沸騰させて蒸発させちゃうという気持ちよさがあるじゃないですか。

私は近いうちに試してみたいですね。夫と2人の食卓では盛り上がりに欠けますけど、それに夫の名前を書いて食っちまいたいときが一番多いかも。

倉本さんの作品では、「2丁目・・・」のあとの「3丁目4番地」「たとえば、愛」「さよならお竜さん」かなり思い入れを持ってみていました。それぞれに別々の思い入れ、特別の思い出があります
その後の倉本さんからはなぜか遠のいてしまいました。








大滝秀治 投稿者:あいどん(管理人)  投稿日: 7月12日(木)07時04分20秒
「2丁目・・」と「3丁目・・」の間がちょっと私の記憶の中では混乱してるんですよね。

大滝秀治が税務署職員の役で出てくるのが「3丁目・・」でしたっけ、森光子らが税務署職員の悪口をさんざん言って盛り上がっていたら、いつのまにか玄関に大滝秀治がいて悪口全部聞いてしまって「わ・私だってちゃんと税金払ってる納税者のひとりなんだ!」とやがて始まる「ホンカン」のノリで怒ってたやつ。

「2丁目・・」の脚本読み返せばその辺のところはっきりするんですけど、ちょっと時間とれなくて。




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祝・ドラマファン 投稿者: ◇◇ 投稿日: 7月12日(木)14時58分14秒
 オメデトウゴザイマス!昔のドラマはあまり、というか、ほとんど見ていないし知識ももちろんありませんが、皆さんが熱く語っている様子から、どんなに面白かったのか、心に残るドラマだったのか、と、羨ましく思いながら掲示板見させていただいてます。

私もその時代に、現役で見ていたかったです。倉本創さんのドラマは、「北の国から」しか知らない上に、「北の国から」さえも、2回くらいしか見たことがありません。

「2丁目3番地」・・・どんなドラマなのかなー。






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◇◇ さんのように若いドラマファンの方も楽しめるように 投稿者:あいどん(管理人)  投稿日: 7月12日(木)18時42分56秒
◇◇さん、さっそく見ていただいてありがとうございます。
年寄りネタでチンプンカンプンだと思いますが、でも覚えておいて損は無いドラマしか語りませんから、おつきあい下さい。

ま、もっとも年寄りも現在のドラマ見てますから、語るべきものがあればそのうち出てくると思います。
またドラマファンならある素敵なドラマがあるんだという一点のみで、必ず共通の回路がひらけるものと信じています。


「ドラマとは何か」と問われて寺山修司は「偶然性を想像力によって組織することだ」と答えたそうです。
見事な定義としか言いようがないのですが、その言葉の根底には人生に対する冷静、いや冷酷と言ってもよいほどの凄絶な認識を感じます。

一本のドラマに出会う事により、心が癒された、元気が出た、などという話をよく聞きます。なかには命を救われたという人も。

TV、映画、漫画、小説、舞台、様々な形で私達には物語が供給されています。
大きな物語を喪失した現代と言われて幾久しいわけですが、それでも人は物語を希求してやみません。それはやはり人間は「物語」という、ひとすじの糸のようなものが自分の人生にも無くては困るという、切実な飢餓、つまり人生が偶然の連鎖では哀しいという思いがあるためではないでしょうか。
私はこの掲示板で、心に残った「物語」を皆さんと共に、こころおきなく語り尽くせればいいなと思います。

「北の国から」はもうちょっとたってから語りたいと思っています。よろしくお願いします。




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と、
いうような感じで「ドラマファンBBS」は始まりました。
2001年7月のことです。
随分昔です。
「呪い揚げ」を再び話題にすることになるとは思いもしませんでした。
面白いものです。

 

サルベージ情報⑨「山田作品にあらわれる超常現象」

 投稿者:あいどん(管理人)  投稿日:2017年 5月 1日(月)09時33分33秒
編集済
  おぼろげな記憶ですがテレビ小説「藍より青く」の中で、誰かが死んだあと、深夜玄関に置いてあった電話が鳴り、驚いて皆が来ると電話は鳴り止み、それは死んだ人が鳴らしたのだと思うという、そんなシーンがあります。




それが何かの伏線になっているとか、そういう事ではなく、生活や心情描写のひとつとしてそういうシーンがあります。





「チロルの挽歌」では後半に炭鉱で活況を呈していた頃の人々が街中を歩くシーンがあり、それが一人の幻覚という扱いではなく登場人物全てが見るという筋立てになっています。





「夏の一族」でしたか確か、アパートの部屋が光り輝きます。






その他あげていたらキリがないほど山田作品には超常現象あるいは超常現象として自然に登場人物たちが解釈するというシーンが現れます。




「異人たちとの夏」や「飛ぶ夢をしばらく見ない」などのように、ある怪奇な話とかファンタジーというカテゴリーに入ったものは了解できるのですが、とても現実的な話にふと入って来る超常現象を魅力的に感じつつも、作劇術としてはどうなのだろうと少し違和感をもって見てしまいます。



大抵の物語では不思議なことは幻覚という扱いとなるか、もしくはなんらかの合理的解釈がなされるというのが常識です。


でも山田作品ではそういうことはなく、不思議を不思議として受け入れなさいと言っているような気がします。不思議込みで生活だよと言っている感じがします。






勿論山田さんは宜保愛子のようなオカルトの世界の人間じゃないことはハッキリしていますが、オカルト的要素で人の心の側面に光を当てるという作劇術以上ののめり込みが見てとれます。


「日本の面影」ではそういう超常現象を有る無しという観点で捉えるのではなく、超常的世界を許容した世界の方が「豊か」ではないかというラフカディオ・ハーンの論旨が述べられますが、恐らくそういう意図でのエピソード挿入ではないかと思っています。







私は骨の随まで合理的解釈という世界に汚染されているからちょっと違和を感じるのだと思うのですが、こういう世界を皆さんはどう捉えておいででしょう、お聞きしたいものです。





という書き込みをしました。
すると、私のような違和感を持たれる方は多くいらっしゃるようでした。

ある方は「魂の現実」というキーワードを持ち出されました。
つまり山田作品のリアリティーが生活というレベルから魂のレベルに深まっているのではというのです。

魅惑的言葉です。

それを受けて私は次の書き込みをします。



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「裸の島」という新藤兼人の映画があります。




殿山泰司と音羽信子の夫婦が、水すらない小さな島で畑をたがやし、子供を育て、貧しいけれども黙々と生きていく姿を描いたものです。
若い頃これを見て感動しました。








見てすぐにその話を山田さんにしました。
すると山田さんはちょっぴり批判的で、新藤さんらしいとらえ方だけど、でも現実はあそこまで単純じゃないのではと言いました。

私は、でもドラマというのは現実の複雑さをどれだけ単純化できるかということでもありますよ、僕は良かったけどなあと少しふくれました。


いや、君のいう良さというのは分かるよ、でも現実はああじゃないと思う。
もっとオバケみたいなものがあると思う。と山田さんは言うのです。






そのオバケみたいなものという意味がその時よく掴めませんでした。




そういう会話があったせいでしょう「藍より青く」で電話のシーンが登場した時とても印象に残ったのです。






それから伊丹十三の「お葬式」を巡って話をした時、その映画を認めつつも批判は人間の死を即物的な死としてしか捉えていないという点に向かいました。




その二つの会話が私の頭から離れないのです。





山田作品がテレビから小説や舞台の方に軸足が向いてからは、特にファンタジーという仕掛けの中でこそ掬い取れる現実という世界に突入して行ったと思います。



そして平行して発表されるテレビドラマの中でも超常現象の現われる確率が高くなります。

それは山田さんが変化したわけではなく、昔からその考えはあり、現状のテレビでは出せない世界であると控えられていたものが、あるとき「もういける」と思われたのではないかという印象で捉えています。





生活の中にあるオバケのようなもの。






それがこういうことなのかと私は個人的に思っています。
「死の準備」というエッセイの中でもそういう体験をしていると書かれていました。

どのドラマの超常現象も、なんだオカルトかとしらけることはないのですが、魅力あるシーンとして感銘しつつも、やはり自分の中の合理性がどこかで違和を感じているのです。
もちろんそれは山田さんも十分承知の上で書いているように思えます。

山田さんは「不思議込みで生活だよ」ともう主張してもいいと思っているのではないでしょうか。






そういう意味で「彌太郎さんの話」はそういう違和を感じさせない作品でした。

ファンタジーという仕掛けを用意しなくとも不思議だけど現実という世界、まさに「魂の現実」を描写することに成功した作品ではないでしょうか。





あの作品を私は「人生は記憶に過ぎない」という言い方で評価しましたが、人間が生きていくことを感じ取り咀嚼していく世界というものは、けっして五感という合理的なものだけによってないということは多くの方が知っておられることではないかと思います。




オカルトではなく、まさしく生きていくということは「魂が体験していく世界」とでも言いたくなるものがあります。
そのぎりぎりのところを山田さんは書いていこうとしているのだと思っています。




という書き込みをします。
するとまた、更に違和体験が語られます。

そして再び私は書き込みます。



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最初からオカルトっぽく統一されていれば問題ないけど、とてもリアルな世界の魅力でひっぱっておきながら途中で「不思議」を出されちゃうと「え?」という気持ちになるのだと思います。







でも山田さんは「合理的なものだけで人生が解釈できるか」という根本的疑問を持っていると思います。



それは作劇術にまで及んでおり、常々合理的説明という「アリバイ証明」をすること自体が「不思議」を否定することになるのだとでも思われているふしがあります。




だからと云って山田さんが死後の世界なりなんなりを信じているかというと、それに関しては「死の準備」で否定されていますから、我々は途方に暮れてしまいます。






「死ぬのは他人ばかり」という外国文学者の言葉をよく引用したのは寺山修司氏で、どういう意味で寺山氏が引用されたのか分かりませんが、確かに合理的に言えば死が自分の人生に訪れた時、自己の意識は無くなっており、それはもう人生ではないのですから、死者というのは常に他人ばかりということになってしまいます。




人間関係が自己を作り上げている面は多々あり、他者なくしては自己は存在しないと言ってもよい位だと思います。






それは生きている人間との関係だけにとどまらず、「死者との人間関係」もまた自分たちに抜き差しがたい影響を与えているのだというのが山田さんの主張ではないかと推測しています。


死者が亡くなる前は当然のこと、死後も関係は深いところで続いているということなのだという主張だと思います。








だから死後が実在するかどうかという問題ではなく「死」がもたらすふくよかな思いとも言うべきものを山田さんは重要視しているのだと思います。
「死」が人生にもたらす影響を「合理的世界」は無視していると思われているのだと思います。






それは心の中の問題として提示すれば良いのではなどと私は思ってしまうのだけど、山田さんはもう一歩踏み込んだ「オカルト」まで行かないと気が済まないようです。

それは「魂の体験」とでも呼ばないと説明出来ないような思いが人生にはあり、合理的ルートを使っているといつまでも到達しないという気持ちのあらわれではないかと思っています。







今村昌平の「赤い殺意」で突然洗濯物がふわーっと飛び、ひとりでに小屋に入り扉が閉まったり、運転士もいない路面電車が雪の中を走っていたり、「神々の深き欲望」で嵐寛寿郎のでっかい顔が突然夜空に現われたりと、リアルな中に突然シュールな場面が出てきますが、今村さんを敬愛する山田さんはそのイメージなのかも知れません。





でもあれほど庶民のリアリティを描写できる山田さんの作風だと、シュールは似合わないという感じがあり、違和感はそこから来ているのかも知れません。






この辺が私の解釈の限界です。







そしてまたいろいろ掲示板上に発言があるのですが、
次の私の書き込みでとりあえず終わりとしたいと思います。



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超常現象にはまったく縁がなく、いくつになっても幽霊が怖い自分としては縁がなくて良かったとしみじみ思っています。





でも、そんな私が子供の頃不思議な怖い体験をしています。

いえ、もののけを見たとかそんな「ハデ」な話じゃありません。








我が家の前に小さな空き地があり、そこにたち葵の花だったと思いますが群生していて沢山の紋白蝶が蜜を吸いに来ていました。

その蝶の数といったらおびただしいもので、満開状態の花の全てに蝶がくっついているような有様で、うっかり近づくとまるでポップコーンがはじける様に一斉に白い蝶が飛び立ちました。





その蝶をチャンバラ大好きの「少年剣士」である私は「修行」の為に斬ろうと思ったのです。

丁度都合良く細い鉄板が手に入り、木刀ではないちゃんと鉄仕様の刀を作ることが出来たところだったので、気分は上々でした。



わっとはじける蝶の群れに飛び込んで、縦横無尽に斬りつけました。

何しろ凄い数なので必ずと言っていいほど刀は蝶に当たり次々と地面に落ちて行きました。
まさに子供というものの残虐さだと思いますが、私は「修行」に夢中になり、春の暖かい日差しの中で斬られた花と蝶が散らかっていったのです。





しかし、ある蝶を上段から斬り降ろした時、私は凍りつきました。






その蝶は花にとまる寸前でしたが、私の刀は、丁度羽のつけねの胴体部分だけを綺麗にストンと切り落としたのです。胴体の向いている方向と刀の方向がピッタリと一致してしまったので、そのようになったのですが、余りに早かったのでふたつの羽だけが空間に開いたままポツンと残ってしまいました。







その残った羽は、なんと胴体をなくしたにも関わらず、まるで胴体があるかのようにふわりと羽ばたき、そして花にとまりました。




蛾と蝶の違いは、蛾はとまっても羽を広げたままだけど、蝶は羽を閉じるということですが、その蝶も、羽だけなのに花にとまるとピッタリ閉じたのです。

そしてまるで密を吸うかのようにしばらく息をして、やがて、パラリと二枚に分かれて落下していきました。






戦慄しました。







例え胴体を無くそうと、蝶という全体の意思は羽に至るまで宿っており、そのプロジェクトは簡単に止めることは出来ないということなのでしょうか、命は簡単には停止できないということなのでしょうか、昼下がりの午後、さんさんと太陽が降り注ぐ中、私は立ち尽くしました。








首斬り刑があった時代に首を斬られた人はどの時点まで意識があるのだろうと考えたことがあります。

例え胴から頭が離れようと、短い時間にせよ血液は巡っているはずで、斬られた瞬間に意識がなくなる訳ではないのではと思います。
刀が首を切断する痛みも感じている筈です。
ショックで気絶しない限り。


手足を全て無くし地面に転がり落ちる、意識体としての首。

必ず祟ってやると明言しその証拠に首切り人の足元の岩に噛みついた生首の話もあります。







死はどこから死なのでしょう。



大した時間差じゃないと言われればそれまでですが。

その後、私が二度と蝶を斬れなくなったことは言うまでもありません。










少しは恐かったでしょうか?

これにておしまいです。
 

5月のお楽しみ。

 投稿者:あいどん(管理人)  投稿日:2017年 4月29日(土)07時00分42秒
  来月のお楽しみです。



山田ドラマ。



5月3日 「想い出づくり」8:00~21:00(日本映画専門チャンネル)
一挙放送。


5月6日 「ながらえば」14:10~15:20(日本映画専門チャンネル)

5月6日 「冬構え」15:20~17:15(日本映画専門チャンネル)

5月6日 「今朝の秋」17:15~19:00(日本映画専門チャンネル)




5月13日 「春の一族①」19:20~21:00(日本映画専門チャンネル)
毎土。



5月27日 「秋の一族①」19:30~21:00(日本映画専門チャンネル)
毎土。



5月30日 「秋の駅」10:30~12:10(日本映画専門チャンネル)


5月31日 「この冬の恋」10:30~12:30(日本映画専門チャンネル)

そして、
早稲田大学芸術功労者顕彰記念「山田太一展」が始まります。

会期:2017年5月13日(土)~ 8月6日(日)
開館時間:10:00-17:00(火・金19:00まで)
休館日:5月17日(水)、6月7日(水)、21日(水)、7月5日(水)、19日(水)
会場:演劇博物館1階 特別展示室  入館無料
主催:早稲田大学演劇博物館、早稲田大学文化推進部、演劇映像学連携研究拠点
協力:日本放送協会、日本テレビ放送網株式会社、株式会社TBSテレビ、株式会社フジテレビジョン、株式会社テレビ朝日、株式会社テレビ東京、一般社団法人日本脚本アーカイブズ推進コンソーシアム


関東地方限定のイベントですが、長期間なので、これを機に上京ツアーも楽しいかも知れません。




倉本聰。


5月1日 「やすらぎの郷」12:30~12:50(テレビ朝日)
月~金。



5月5日 「駅 STAION」20:10~22:30(日本映画専門チャンネル)

5月12日 「前略おふくろ様⑤」22:00~23:00(日本映画専門チャンネル)
毎金。








早坂暁。
5月6日 「関ケ原 」11:00~12:40(TBSチャンネル)
毎土。









宮藤官九郎。

5月6日 「ゆとりですがなにか」22:10~6:30(日テレプラス)
一挙放送。

5月11日 「ロケット・ボーイ⑦終」0:15~1:15(ホームドラマチャンネル)






地上波では新ドラマ、いろいろ始まっていますが、皆様はお楽しみを見つけられましたでしょうか?

大きな話題を提供している倉本聰の「やすらぎの郷」、今からでも間に合う!!と、今日、明日総集編放送です。テレビ朝日にてAM10:00~12:00。
毎日20分の放送でしか観ていないので、ああ、もう4時間分放送したんだという感じです。全部で何時間分になるんだろう?






 

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