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サルベージ情報⑯  小さな願い24終

 投稿者:あいどん(管理人)  投稿日:2017年11月15日(水)16時58分14秒
  クジラのしっぽで会おうよ(4) 


その頃繁雄はクジラのしっぽにいた。
今頃とんでもないことが起きているのではないかとか、ふと女同士の共同戦線がはられることになったらどうしようかとか思ったりした。
まあ詮索しても仕方がないことでまな板の上の鯉であった。

水着の女性が数人、海から上がって来て繁雄の傍らを通り過ぎた。肌の白さが明らかに地元の人間ではないと分かる女性たちであった。初夏だったが海水浴も十分という陽気だった。いつもよりもっと多くの人々がバーベキューをしていて、女性たちはまるで人魚のように華麗に椅子に座った。若い男たちが懸命に肉を焼いていて、こういう時の男はひたすら奉仕役だった。

今夜この娘を落とせるかどうか男たちは懸命に下心を燃やしているのであろうか。中年の感受性で若者たちを見ていることに繁雄は気がついて少し恥ずかしくなった。

性も若さも屈託なく享受している健康な若者たち。しかし、おそらくどの若者も妊娠する心配はしても、妊娠出来ないのではないかという心配をしている者はいないだろう。健康な肉体を信じて疑わない人々。理由は定かではないが確実に妊娠しない人が増えているという事実を、どれだけの人が知っているだろうか。
健康が支配する浜辺で繁雄は少し涙ぐんだ。碧のことを思った。
引越しをして落ち着いたら向こうでいい病院を探さなきゃと思った。

引越しの時期は未定だが間違いなく来年の夏はここには住んでいないんだとその時になって繁雄は気がついた。この海ともお別れなのである。
なのに自分たちは一度もここでバーベキューをしていないことに気がついた。子供が出来たらそういうこともやろうかという夢はあったが、結局一度としてそういうことをしていないことに気がついた。
引っ越す前に一度みんなを呼びたいなと思った。悟とめぐみと昭子、三人の関係も一度調整しなくてはならなかった。金魚たちもどうだろうかと思った。

繁雄は早速碧に電話をしてそのことを伝えると電話の奥で歓声があがった。ひかるがノリノリだと言う。えっ?と一瞬思ったが二人ともノッていた。二人がよければそれでいいじゃないかと繁雄は思った。

その夜。
繁雄はどんな話をしたのか少し聞きだそうとしたが、碧は何も大したこと話してないわよ、あの中年男復活したそうよと笑った。
碧は何故か生き生きとしていた。
繁雄は「今頃こんなこと言うのはなんだけど、本当に同居していいのか?今とは違うタイプのストレスが溜まる生活になることは間違いないぞ」と言った。
碧は「色んなことがあるだろうね。いいことも悪いことも」と言った。
「妊娠に悪影響があったりしたらどうする?」
「それは分からないわよ。逆に引っ越しすると妊娠する人結構いるんだよ」
「へ?」
「やっぱり不思議なものねえ妊娠って。ちょっとした変化が影響するのね」
「まあ、そういうこともあるかも知れないけど」
「悪く考えても仕方ないわよ。何かあったらシゲちゃん守ってね」
「もちろんさ」
「嫁と姑の間で板挟みかあ。シゲちゃんが大変だね」と碧は笑った。
「そんな事はないさ。俺は何時だって碧の味方さ」
「まーた、またまたあ」
「ホントさ」
「半分信じとくよ」
「ちぇっ。ひでえな」

二人は笑った。



クジラのしっぽで会おうよ(5)


バーベキューの話は広がるだけ広がりメンバーは膨れ上がった。参加者のスケジュール調整は難航し、もう夏も終わろうかという時期にやっと決まった。
悟たち、昭子、金魚たち、ひかる、そしてまるちゃんと植村課長までも来た。

夕暮れの穏やかな風が心地よいバーベキュー日和になった。
パーティの中心となったのは繁雄と碧ではなく悟とめぐみの子供だった。その無力な存在は全ての人を支配した。めぐみは言った。
「はあい。この人がもう一人のお母さんですよお」
そういいながら赤ん坊を碧に渡した。
「もう一人のお母さん?」とびっくりして碧は受け取った。
「ええ、碧さんがいなければこの子はこの世に存在していませんでした」とめぐみは言った。
そう、悟とめぐみが堕ろすことを断念したのは碧の狂ったような対応だった。
もしあのまま堕ろしていたらこの子の命は今ここにない。それは単なる偶然であったのかもしれないが信じがたいほど重い出来事だった。

碧は「私はお母さんかあ」と嬉しく赤ん坊を抱いた。
「じゃあ俺はお父さんだな」と繁雄が言うと、碧は「シゲちゃんは何も言わなかったでしょ」と冷たくした。
めぐみが笑った。悟も笑った。
まるちゃんが私にも抱かせてと言って来た。まるちゃんは真綿を抱くように受け取った。植村課長とまるで我が子を見るように和んだ。

「こら!!」と金魚の声がした。
バーベキュー係りの清久がひかるにかまってばかりで肉が焦げているのだ。娘にも「駄目でしょ!」と尻を叩かれているのだが清久の気持ちはひかるにだけ向いている。
ひかるは過剰適応というのか、見事に自分を出さずにウエイトレス役に徹していた。あの中年男の前の夜叉のような部分はおくびにも感じさせず、にこやかで爽やかな少女を演じていた。


昭子が「いいところねえ。もっと前からこういうことやれば良かったわねえ」と繁雄と碧に言った。
繁雄は「ホントだね」と頷いた。
「勿体ないね、引っ越しちゃうなんて。後悔してんじゃないの、ふふ」と昭子が笑った。
「また、引っ掻き回すようなこと言うなよ」と繁雄は言った。
「そのうち、もう本当に会社たたんじゃったら、あっちの家売って、こっちに建てたっていいんだけどね」
「またまたあ。母さんもう無責任なこと言わないでよ。あそこは父さんとの思い出の家じゃないか。出来もしないこと言うなよ、調子いいんだから」
「あら、随分ね」
「もう母さんの『言いっぱなし』にはこりごりだよ。いつも無責任に話しを広げるだけ広げといて最後は『あら、ちょっと言ってみただけよ』って言うんだもん、たまったもんじゃないよ。今後は少し自粛してよ。碧が迷惑するから」
「あら何よ失礼ねえ。碧さんに誤解されちゃうじゃない」
「誤解もろっかいもないの、もうとっくに底は割れてるの」
「まー!随分冷たいわね」と昭子がむくれたら「はーい、お婆ちゃん喧嘩してる場合じゃないでちゅよお」とめぐみが赤ん坊を連れてきて昭子に渡した。
昭子は赤ん坊を見た途端相好を崩し赤ん坊を受け取った。
めぐみの「お婆ちゃん扱い」は手馴れたものだった。



碧は小声で「トイレ行って来る」と繁雄に言った。
「あ、」と繁雄は次の言葉が出てこなかった。
碧は「ぬかには慣れてる」と言った。
「そうか」
「泣かないよ」
「そうか」

ひかるが球場の売り子のように「缶ビールいかがですかあ」とやって来た。
繁雄は「ああ、ご苦労さん」と言った。
「ご免なさいね、何もかもやらせちゃって」と碧が言った。
「ううん」とひかるは缶ビールを開けた。「未成年なんて言いっこなしよ」とウインクしてグッと呑んだ。
「淋しいなあ、せっかく友だちになれたのにお別れかあ」とひかるは言った。
「ホントだね」と碧が言った。
「時々遊びに来るよ。こんな風に定期的に集まれるといいな」と繁雄が言った。
「そうだね」とひかるがいいながら「あれ?」と変な顔をした。そして碧をくんくんと嗅いだ。そしてもう一回「あれ?」と言った。



クジラのしっぽで会おうよ(6) 


ひかるが言った。
「碧さん今日何つけてる?」
「え?何って?」
「何かいい匂いするよ」
「え?何もつけてないよ」
「そう?変だな。なんかいい匂いする。ねえ感じない?」ひかるは繁雄に意見を聞いた。繁雄はわざと大袈裟にくんくんと匂いを嗅ぎ「そういえば少し」と言った。ひかるは「でしょう」と言った。
碧は「やだなあ何もつけてないよ。シャンプーの匂いじゃないの」と言った。「ううん。そういう匂いじゃない」とひかるは言った。
「気のせいよオ。何もつけてないんだから」と碧は言った。ひかるは「そうなのかな?」と曖昧になった。
繁雄が「熟女の香りって奴じゃないのか」と笑った。碧は「あ、馬鹿にしてる」とぷんぷんした。ひかるが笑った。


碧は「へんなこと言うからトイレ行きたくなっちゃった」と、やっとトイレに向かった。
ポーチに市販の判定薬を入れていることを知っているのは繁雄だけだった。
生理が遅れていた。
今朝出かける時に判定薬で検査したら陽性だった。
市販の判定薬をそのまま信じるわけにはいかない。ぬか喜びをした経験は痛いほどあった。だから別の会社の判定薬で検査しようしているのだ。


陽が沈もうとしていた。
見事な夕焼けだった。人々が夕陽に染め上げられていた。
「『風と共に去りぬ』のラストシーンみたいだな」と繁雄はひかるに言った。
「『風と共に去りぬ』?」
「観てない?」
「観てると思う。あの、やたら長い映画よね」
「はは、面白くなかった?」
「あんまり」
「そっか」
繁雄は苦笑した。

「風と共に去りぬ」のラストは、夕焼けをバックにした主人公が失意の中から立ち上がり明日を信じるところで終わる。
真っ赤な空とシルエットの主人公を繁雄は覚えている。


悟がギターを弾き始めた。
「可愛いアイシャ」だった。
間奏でめぐみがハーモニカを吹き始めた。潮風の中をメロディが流れた。


ひかるが「私も行ってくる」とトイレに向かった。女子トイレ渋滞が長くなっていた。その渋滞のしっぽにひかるが並んでしばらくすると、トイレから碧が出て来た。そしてひかると立ち話を始めた。
碧は笑っていた。
繁雄は、いい結果の笑いなのだろうか、それとも泣きたい気持ちを秘めたポーカーフェースの笑いなのだろうかと思った。

やっぱり、また、ぬかなのかも知れない。
いや、ぬかでなくとも市販の判定薬の結果より正式な医療機関の判定が全てであって大事なのはそちらだ。
そしてその結果があろうと、懐妊を出産まで維持できるかどうかというのは、これもまた大変な確立である。泣く条件は揃っていて、そちらのほうが多かった。

妊娠の仕組みは解明されつつあるが本当の意味で人が何故妊娠するかということは以前として分からぬ世界。人は何故生まれて来るのか。人は何処から来て何処へ去っていくのか。


突然ひかるが繁雄に向かって叫んだ。
よく聞こえなかったが更にひかるは叫んだ。
「パルプンテ~~~~!!」と言っているようだった。
パルプンテ?ドラクエ?ひかるはもう一度「パルプンテ~~~!!」と叫んだ。碧は笑っていた。


昭子が繁雄に「ねえ」と寄ってきた。
孫を取り上げられ手持ち無沙汰になったらしい。
昭子は少しほろ酔いで、昨日武義の夢を見たと言った。
武義がかつらをかぶって出て来たと言う。そしてかつらをとったら髪の毛ふさふさだったと言う。
武義は笑って「あきらめたら生えてきた」と笑っていて、「髪の毛なんてどうでもいいでしょ!って言ったら、凄く楽しそうに笑っていて、わたしそんなにハゲの事言ったかしら、怒っているのかしら」と昭子は半泣きになった。



碧はゆっくりと繁雄に近づいてきた。
夕焼けをバックにして綺麗なシルエットだった。
夕焼けの中で「明日こそ」と誓ったヴィヴィアン・リーのようだと繁雄は思った。


碧の体に光が宿っていたら、それはモノリスの夜の果実だと繁雄は思った。
あの孤独な二人の夜。だからこそ結ばれた夜。そんな因果律を、笑われてもいいから信じてもいいじゃないかと強く思った。





                         -終-

2003.11.20完成。

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isizakataichi@gmail.com
 
 

サルベージ情報⑯  小さな願い23

 投稿者:あいどん(管理人)  投稿日:2017年11月15日(水)16時50分42秒
  クジラのしっぽで会おうよ(1)

幾つか手順はあったが碧はひかるに会った。
命を助けて貰った礼を碧は言った。
ひかるは恐縮した。
碧は「記憶が定かじゃないんだけど、とても恥ずかしい姿を見られたような気がする」と言った。
ひかるは黙っていた。
「もう朦朧としていたから夢のような気がしているんだけど、あなた何か私に変なこと言ってなかった?」
「変なこと?」ひかるは問い返した。
「ええ」
ひかるは何のことだか分からなかった。考えた挙句「どんな?」と聞いてみた。
碧は「うーん変なこと」と暫し考え「あの、頭がおかしいって言われちゃうと思うけど、その・・」と苦笑した。
突然「あ!」と思い当たったらしく慌ててひかるが言った。
「あっあの、『子供を生むことは正しいって言って』って言いました。それですか?」
「ううん。それじゃないの。その後」
「その後?」
「ええ、その後」
「えー?何言ったかしら?」
「もう救急車の音が凄くて、確か担架に乗せられる頃だったと思う」
「えー、何言ったのかなワタシ?」とひかるは考え込んだ。
碧は「いえ、本当に馬鹿じゃないのって言われそうだけど」と続けようとしたら再びひかるが言った。
「あ、『私をぺちゃんこにして』って言いました。それですか?」
「ううん。それじゃない」
「えー?じゃあ何言ったんだろう?」ひかるは益々考え込んだ。
碧は苦笑して「ザオラルって言ってなかった?」と言った。
「ザオラル?」ひかるは驚いた。
「そう。ザオラル、ザオラルって言ってなかった?」と再び碧は苦笑した。
「覚えてない」
「そう」
「本当にザオラルって言ってたんですか?」
「うん。聞き間違いでなければ」
「はは、馬鹿みたい。やっぱり気が動転してたんですね私」
「え?じゃあ、やっぱり言ったの?」
「いえ、覚えてません。でも私が言いそうな事です」
「そう」
「本当に言ったんですか?」
「ええ、聞き間違いでなければね」
「ばっかみたい。何言ってんだか。ははは」



クジラのしっぽで会おうよ(2) 


「ザオラルって生き返らせる呪文よね」と碧は言った。
「あ、やりました?ドラクエ」とひかるは生き生きした。
「ええ」碧は苦笑して頷いた。
「はは、ばっかみたい。ホントにそんな事言ったんですか私」

ザオラルとは「ドラゴンクエスト」という中世を舞台にしたロールプレイイングゲームの中の魔法で、死者を生き返らせることが出来る呪文である。
「全然覚えてません。ははは。訳わかんないことやってるなあ」とひかるは笑った。
碧は「お陰で生き返ったわ」と言った。
ひかるは「ザオラルかあ」ともう一度呆れた。

碧は言った。
「あなたが生きていくということはロールプレイイングだって言ったと聞いた時、ふふ、変なんだけど真っ先にドラクエが思い浮かんだのね。勿論本来あなたが言わんとしていることとは違うんだけど」
ひかるは黙って頷いた。
「ロールプレイイングゲームの良さは役割と目標がはっきりしていることで、だからこそ面白いんだけど、現実のロールプレイイングはその先に明確な目標があるというわけではないわよねえ。いつ果てるとも知れぬ役割演技」
「ええ」
「だから私、不妊治療を始めた時とてもロールプレイイングゲームの世界が羨ましくなったのよね」
「羨ましい?」
「ええ。経験値があるじゃないゲームには。でも現実にはない」
「ああ」

経験値とはゲームキャラクターが「冒険の旅」の途中で遭遇するモンスターを倒すたびに得られるポイントのことで、ある程度溜まるとレベルが上がる。すると攻撃力であるとか防御力であるとか様々な能力の数値が増え、新しい魔法が使えるようになったりする。強い敵を倒せば沢山の経験値を貰えレベルが上がるのも早くなる。

碧は言った。
「『日本人の自我は汝の汝でしかない』って言った人がいたけど、確かに自分というのは相手との関係で立ち上がって来る部分が多いわよね。親の前では子供としての自分。学校に行けば生徒としての自分という具合に、ある意味役割を引き受けているだけという局面もある」
「ええ」とひかるは頷いた。
「私も子供から娘という時代を経て、妻という役割を演ずるようになったわけだけれど、次にさて、母親という役割を手に入れたいと思った時に、これがなかなか一筋縄ではいかないことに気がついたの。簡単にステップアップ出来る世界じゃないのね。ある人は毎回宝くじを買うようなものだって言ったわ。ある程度の準備は出来るけど、その努力が実るかどうかは賭けでしかない。どんなに堅実に努力してもロールプレイイングゲームと違って経験値は一切ない。駄目だったら全てチャラ。一からやり直し。もう本当に経験値のある世界が羨ましいと思ったわ」
「なるほど」
「そんな時に私はあなたに会って自分の役割は違うんじゃないかって思い始めたの」
「役割が違う?」
「そう。母親という役割を願っていたわけだけど、ひょっとして私の役割は違っているんじゃないかって思い始めたの」
「どうしてですか?」
「子供が産めないと言う事実よね。生きるということに意味とか価値があるのかなんてことは私には分からない。古いのかもしれないけど、意味がなくてはおかしいし、価値がなくてはおかしいという気持ちだけがある。もうそこは理屈じゃ言えない。だけど確かにあなたの言うように無邪気に選択出来る道ではないのかも知れないと思った。あまり確信なく命を産むべきではない。それはあなたの言う通りよ」
「いえ・・・」
「最初私はあなたを恨んだけど、今思うと命を助けられたせいばかりではなく色んなことをあなたから貰った。あなたも私を恨んでいるだろうけど、これはまさしく人と人の出会いよね。出会いって愛情に溢れたものばかりじゃなく憎しみに溢れた出会いもあるのよね。そしてそれはどちらも同じ位深い意味があるんだって気が付いたの。私は今そう思っているの」
「あの、そんな命を助けたなんて言われると困ります。元はと言えば引き金引いたのは私ですから」
「そうね、凄い引き金だったわ。ふふ」
「困ったな。」ひかるは本当に恐縮した。




クジラのしっぽで会おうよ(3) 


その会話はある日曜日の午後にアパートで行われていた。
繁雄には「ちょっと席を外してて」と出て行って貰った。碧は「大丈夫よ。包丁持ち出したりしないから」と笑った。繁雄は「海でも見てるよ。終わったら電話して」とひかるが来る前に出かけた。

ひかるは碧に「じゃあ本当に不妊治療やめちゃうんですか?」と聞いた。
「いえ、やめるわけじゃないわ。ちょっとお休みということよ」と碧は答えた。
「そうですか」ひかるは落胆した。
「これでもまだまだ若いしね」と碧は笑った。
「もちろんですけど・・何か残念です」
「ふふ、とにかくその事を第一目標とするのはやめたの。何か私たちには生物として繁殖出来ない理由があるのかも知れないけど、その調査はひとまずお休み」
「そうですか・・」
碧は「そんなガッカリしないでよ。何か変よ」と言った。
「はい。変なんです。どうしてこんな事思うのか分かんないんですけど、お二人には生んで欲しいなって思います」
碧は何処までひかるが本気で言っているのか戸惑ったが「ありがとう」と返事をした。

するとひかるは突然涙ぐんだ。
いや涙ぐんだだけではない本当に泣いていた。
「どうしたの?」と碧は聞いた。「すみません」と言ってひかるは更に泣いた。
「泣くことないじゃない」と碧は苦笑し「そんなに絶望的なことじゃないわ。休むだけなんだから」
「いえ、そうじゃないんです」
「え、何?」
「昨日ショックなことがあって」
「何?」
「意識が回復したんです」
「回復?」
「ええ、あの男の」
「あの男?」
「ええ」

少し繁雄から聞いていた。自殺未遂をした中年男。
「あの植物人間の?」と碧は聞いた。
「ええ。聞かれてます?」
「うん。少しだけど。そう、意識回復したの・・良かったじゃない」
「ええ、良かったと思いました。もちろん意識回復すればまた面倒なことが始まるのかも知れないけど、でも良かったなあって思って」
「もちろんよ。良かったわ」
「植物人間の役割より、まだストーカーの役割の方がマシだなんて思ったりして。今日とっても変なんです」
「変じゃないわよ。当然よ。そう。良かったわ」
「私こういうことには強い筈だったのに、何か突然変なんです」
「変じゃないわよ。ううん変になることは変じゃない」
「何か変わっちゃったんですよね。本当に変」
「ふふ、パルプンテみたいなものね」
「パルプンテ?」
「そうパルプンテ」
「ふふ、パルプンテか」
「そう、パルプンテ」
ひかるは笑った。碧も笑った。

パルプンテとは何がおこるか分からない魔法である。
凄くいいことも起きるが、まったく役に立たないふざけたことも起きる。

碧は思った。
自分にもパルプンテが起きたのだと。何故ひかるとこんな会話が出来るのか。
あの水溜りのおたまじゃくしの一夜。あれもパルプンテだったのだろうか。
結局未遂に終わった不倫の一夜。しかし未遂に終わったとは言え碧の気持ちは明らかに傾いたのである。そのことは何らかの変化を碧に与えていた。
 

サルベージ情報⑯  小さな願い22

 投稿者:あいどん(管理人)  投稿日:2017年11月15日(水)16時46分50秒
  モノリスの夜(1) 



「2001年宇宙の旅」に出て来る真っ黒な謎の板モノリス。超越者の「意志」「使命」がこめられているらしいモノリス。宇宙空間を気の遠くなるような時間漂い続け遭遇を待ち続けるモノリス。
かつて碧と繁雄はそのモノリスの孤独さに自分たちを重ね合わせた。自分がこの宇宙に存在している事は何なのかという、青春期には誰しもが抱くであろう疑問をモノリスに重ね合わせた。もちろん映画のモノリスは人類への示唆としての物体だが二人はそのような意味の共感をもった。
当然モノリスには「使命」があったが、この世に生まれ落ちただけの自分たちに果たしてそのようなものがあるのか。それは分からない。
ただ宇宙に誕生した孤独、あるのかないのか分からない出会いを待ち続ける孤独だけは一緒だと思った。

碧というモノリス。
繁雄というモノリス。
二つのモノリスは今地球の片隅の小さな街の小さなアパートの一室に居る。
何もかもが寝静まった夜。
あの騒動の一夜から十日ほどの時間が流れていた。
何処で何をしていたのか、碧はとんでもないタクシー料金を使って繁雄のもとに帰って来た。そして「生理が来たよ。生理が来たよ」と泣いて抱きついた。
泣いていたけど碧は何故か嬉しそうだった。生理を喜ぶ碧を見たのは初めてで繁雄には何のことだか分からなかった。

あの日から碧はふっきれたものがあるのか、はっきりと不妊治療を休むことを宣言した。どうして二人で暮らしていくことに前向きになれなかったのだろうねと言った。
治療を休むのも治療だよと笑った。
繁雄は突然の碧の変化に痛ましいものを感じた。どうみても無理をしているとしか思えなかった。
しかし碧は自分に自信がないから妊娠の世界に逃げ込もうとしていたのだと思う、子供は作るものじゃない、やって来てくれるものと思わなきゃとまで言った。
繁雄は額面通りに受け取ってよいものか迷った。

繁雄はあの日「羨ましいよ」と言うメールをひかるに貰った。
碧が帰って来た時ひかるは気を利かしてアパートの外にいたのである。そして碧の抱きつく姿を外から見ていたという。
「羨ましいよ」という発言がどういう意味なのか定かには分からない。素直に羨ましいのか、皮肉で言っているのか。

「生きる」「人生」などという手垢のついた言葉に気持ちを寄せる術を持たないひかるにとって生きていくことはロールプレイイングでしかないのだろう。
「誰としてもひとりぼっちだよ」と泣いていたひかるだが、それはモノリスは誰とも出会えないんだよという涙でもある。
繁雄たちを、勘違いかも知れないけど「出会った二人」のように見えたということなのだろうか。
ひかるも「色褪せた生」を前提として生きているにも関わらずそうではない生を求めている。恋愛の感動もセックスの喜びも色褪せたものではないものとしていつか感じ取りたいと願っていると思える。

静かな夜。
モノリスは考えていた。
そして隣で静かに眼を閉じたモノリスを見た。
自分たちは出会っているのか。ただ偶々隣り合わせているだけなのか。
モノリスはモノリスを見詰めた。
すると見詰められたモノリスが目を開けた。不思議な顔をして見詰め返した。
モノリスはその視線を更に返した。
モノリスは何かとても愛しくなった。
その意志は見詰められたモノリスにも伝わった。

モノリスはそっと手を伸ばした。手の先が胸のふくらみに触れた。柔らかく優しかった。その柔らかいものに触っているだけで気持ちが癒された。暖かいものがこみ上げて来た。どうしてこんな尊いものがあるのだろうと思った。触っているうちに自分の中に中心が出来てくることが分かった。
すると相手のモノリスにも中心が出来てきたらしかった。呼応してきた。
モノリスは唇をふれ合った。

お互いの中心が共鳴した。別々のモノリスが別々ではないかのように白熱し始めた。一方のモノリスの中心は屹立し、一方のモノリスの中心は溶けはじめていた。
共鳴するモノリスはお互いの中心を重ね合わせた。
ひととき幸福な一体感を感じあった後、モノリスは再びひとつひとつのモノリスに戻った。
何故この宇宙に孤独なモノリスが存在するのか、それはお互いに分からない。しかしふたつのモノリスはひとつになる幸福にめぐり合っていた。それはふたつのモノリスだけが認め合った引力。なんの根拠があってと問われても答えようのない、二人だけの引力。


モノリスの夜(2) 


電話が鳴った。
深夜に何事?という気持ちで繁雄が出ると悟であった。「寝てた?ごめん」と言ってから「困ったことが起きた」と続けた。
「めぐみと母さんがやっちゃった」と泣きそうな声で言う。「何だよやっちゃったって」と聞き返すと「喧嘩しちゃった」と言う。
どういうことかと詳細を聞くと、武義が死んでからというもの昭子の関心は孫だけに集中してしまい、悟の家に入り浸っていたらしい。
たまにということであればそれなりの対応が出来るが、毎日のような頻度になると息苦しくて仕方がなくなりとうとうぶつかってしまったらしい。昭子の孤独も分からなくはないが我慢にも限度があるというのがめぐみの言い分だと言った。

「兄貴のところは、ほら、碧義姉さんの一件があるから気軽に行けないだろう?もうエネルギー全部うちに来ちゃってさあ、参っちゃったよ」と悟は言った。
繁雄は「そうか済まないな、気がつかなかった。なんとかするよ」と電話を切った。
碧はあのめぐみちゃんが喧嘩?という意外感が拭えなかった。良くも悪くもおおらかだったのにと思った。でも何かひとつの世界を志すような女性なのだから、ひとつこうと決めたら絶対動かないというところもあるだろう。そう思った。

繁雄は深夜だったが昭子に電話した。しかし昭子はまったく状況を認識していないようであった。繁雄は「喧嘩したんだって?」などと言うわけにもいかず、遠回しに探りを入れたのだが昭子はまったくトラブルなどないという風情で、それはとぼけている訳でも嘘をついている訳でもなさそうだった。

「やっぱりねえ、初めての子育てだからねえ、少しノイローゼ気味なのよねえめぐみちゃん。あちらのご両親も遠いからめったに来られないでしょう。私も結構気を使って大変よオ」などと言う始末。
まあ、お互いに罵りあったとか、そういう事ではないらしく、どちらかと言うとめぐみの方が心の中で切れてしまい、めぐみの態度としていは精一杯の怒りの表明をしたのだが、昭子にはまったく通じていないというトラブルのようであった。
仲裁の必要があるのかとも思って電話したがその必要はなさそうであった。しかし放っておく訳にはいかなかった。
繁雄は今度の日曜に行くからと伝えて電話を切った。

碧は「同居しようよ、おかあさんと」と言った。「え?」と意外な気持ちに繁雄はなった。「私はいいんだよ」と碧は言った。
繁雄は「無理するなよ」と言った。碧は「無理じゃないよ。それにもしシゲちゃんが会社継ごうという意志があれば、それでもいいと思ってるんだ」と言った。「おいおい」と繁雄は苦笑した。

二人だけの事ではない全体の事を碧は考えようとしている事が繁雄には分かった。しかしそれはまた、まるでもう自分の事はいいんだとでも言わんばかりの気持ちに思えた。
子供が欲しい、自分の子供を抱きしめたいという、切実で小さな願いに固執して来た碧が、そんな事を言うのは胸に応えた。いじらしくなった。

しかし昭子の事もまたないがしろに出来ない問題だった。強がってはいるが淋しい事に間違いはなく、孫に過剰に関わる事で気持ちの空白を埋めようとしていると思えた。
あくまでも、めぐみ達を助けているのだと自分を納得させて動いている昭子の孤独が、これまた胸に応えた。
大人になればなるほど孤独だの淋しいなどという事を人は言えなくなる。また自分自身をそのような惨めな存在として素直に認める事はある器量が要求される。
ここは何らかの形で繁雄たちが行動を起こさなくてはいけない局面であった。

次の日曜日繁雄と碧は実家を訪ねた。
碧にとってはあの葬式以来であった。四十九日も欠席していた。昭子は腕の包帯をどうしたの?と驚きながらも深い詮索はせず久しぶりの再会を喜んだ。
はっきりとした形ではないが同居の話を匂わすと「そんな無理しなくていいのよ。一人が気楽でいいと思っているんだから。うるさいの居なくなってせいせいしてるんだから」と笑った。
でも、ふと「じゃあ改築しなきゃ駄目かしら」などと言う発言もして深いところで夢を広げたりした。
午後になって文夫がやって来た。朝釣りの帰りということで釣果のお裾分けをしに来たらしかった。繁雄と碧の顔を見ては呑まない訳にはいかなくなり、早速魚をさばいて簡単な宴会となった。と言っても文夫は釣りながら呑んでいたので大分酩酊していた。

そんな状態で文夫は碧に「悪く思わんでな」と言った。節子の事であった。
「まあ知ってるだろうけど血が繋がってないからな」と言う前置きで始めた文夫の話は、まったく碧の知らない話であった。



モノリスの夜(3) 



武義と文夫、節子は血が繋がっていないと言うのである。
つまり武義の父と文夫たちの母は子連れ再婚をしており、節子以後の兄弟に関しては血が繋がって来るのだが、武義と文夫たちはまったく繋がっていないという事であった。
節子にとって武義というのは自然な兄ではなく意識的な人工的な兄なのである。その為不自然な「純度」の気持ちを節子は持っているらしかった。

変な例えだが、女性に憧れる男性が性転換なり女装なりして女性よりはるかに女性らしくなって純粋な女性を体現するように、節子もまた兄妹という純度を不自然なまでに体現しているというのである。
普通に血が繋がっていれば「あのクソ兄貴」と思える部分が、どうしても観念の純粋さが勝ってしまい、不自然なまでに「兄」を大事に思ってしまっているのだと文夫は言った。
そしてそれは兄の武義と共に繁雄、悟という二人の子供にも投影される結果となり、その純度があのような態度として表れるのだと言った。

碧は思った。血の繋がっていない親子兄弟とはどのようなものであろうかと。
不妊治療が長期化している夫婦にとって養子縁組というのはある時から考える選択肢である。その時自分が欲しているのは血筋なのか、またはそのような縁によらない別の子どもなのかという問題が出現して来る。

人工授精、代理母出産にしても、どれだけ自分たちの血筋の継承が叶えられているかということがポイントとなる。自分たちの遺伝子を遺したいという動機で代理母出産を何度も繰り返している人の話を聞いたこともある。家制度が残っていればまだしも全ては個の営みに収斂されてしまった現在では遺伝子の伝達という世界に傾きがちなのだろうと思う。

とは言うものの一方では里親制度などに期待をかける夫婦も多く存在し、日本人に限らない異国の子供を選択肢とする人々もいる。その願いの奥深さには碧はかなわないと思ってしまう。やはり自分は血筋というものを第一に考えているのだなと思ってしまう。やはり何処まで行っても自分なのだ。

血縁によらない家族兄弟。
血が繋がっているからこその安心感と愛憎が介在しない関係。そこにどんな純度が発生してしまうのか、また繋がりがないからこそ出現するマイナス感情もあるであろう。碧にはまったく未知の世界だった。
もっとも節子自身は文夫のような解釈はしておらず、前世からの因縁ということで尚更強い絆を確信しているということであった。
繁雄は節子のようなタイプは別にそういう裏事情がなくともありがちなんだけどねと、身も蓋もないことを言って文夫を笑わせたが、人と人の繋がりというのはまったく一様ではない。

帰りの電車の中で碧と繁雄は同居を決心していた。
昭子の言葉には出さないが深いところの喜びが伝わって来ていた。うかれていると言ってもよいほどでいじらしかった。
二人だけの生活にピリオドを打とう。そう碧と繁雄は思っていた。
不妊治療を始めたことによって二人は改めて命ということを再認識し、自分がこの世に出現した事情を多少なりとも了解した。自分たちが様々な連鎖の果てに屹立していることが具体的に分かった。

それは分かったところで何一つモノリスの孤独を解決するものではないのだけど、ある視野の広さを二人に与えた。
全体があって自分がいる。自分があって全体がある。言葉にすれば簡単なことだが、その具体的なバランスは一人一人違う。今二人は自分たちのバランスを捉えようとしていた。そしてそのバランスの中に親があり子があるということを思い始めていた。

自分たちは今ここにいる。二人は今ここにいる。

碧は同居の決心と共にもうひとつ決心を固めていた。
それはひかるに会うことであった。
自分を奈落の底に突き落としながらも、自分の命を救ったというアンビバレンツな存在。
碧はひかるとふたりだけで会う必要を感じていた。
 

サルベージ情報⑯  小さな願い21

 投稿者:あいどん(管理人)  投稿日:2017年11月15日(水)16時42分52秒
  空が落ちてくる(5)


まるちゃんの話に出て来た「シングルウーマン」の海外レポートによるとシングル女性は一人でレストランやパブ、ダンスホールには行かないそうである。行けば様々なレベルで不愉快な思いをするからだと言う。ある女性はゆきずりの女になりたがっているように見られない為に必ず本を携帯するという。

久しぶりに一人であてもなく繁華街を歩いて碧はその気持ちが分かった。
居場所がなかった。昼食ひとつするにしても「ひとり」であることを強烈に意識させられた。これから家庭に戻るという目的があればそのような感情も起きないのかも知れないが、本当にひとりぽっちだと思うと、全ての場所が自分の孤独を浮き彫りにしているように思えた。自分はたまたま今一人なだけなんだということを証明する為に電源を切った携帯をわざわざ覗いたりした。

夜も九時を過ぎようとしていた。お腹が空いた碧はレストランに入ろうかとも考えたが、あの四人席に座ることを考えたら躊躇うものがあった。
碧は繁雄と結婚前に何回か行った小さな居酒屋を思い出した。古い店だが会社帰りのOLらしき女の子が楽しそうにしていた雰囲気のいい店だった。確か定食のようなものもあったような気もする。
今日はとにかく何処かビジネスホテルのような所に泊るとして食事だけはそこでちゃんと済ませようと思った。カウンターが空いていればそこに座ろう。

繁華街の少し外れにある店に入ると学生ではないと思うが若い男女が二つのテーブル席を占領して六人ほどで騒いでいた。カウンター席では三人ほどのサラリーマンが店奥のテレビを観ていた。野球の延長放送が終わるところのようで巨人が負けていることが分かった。

碧はカウンターの端に座りビールを頼んだ。いきなり定食ではこの酒の席の雰囲気を壊しそうだった。少し呑んでおにぎりでもいいかななどとも思った。
女一人で入って変に注目されたらどうしようという危惧があったが、男たちはテレビと若い女性に関心が集中していてホッとしたこともありそんな気分にさせた。

碧の席だけだがカウンターの目の前に熱帯魚を入れた水槽があった。碧は何故か熱帯魚ではなく水槽の端の糸ミミズに目が止まった。何十匹いや何百匹と思える糸ミミズが揺れていた。碧はビールを飲みながら糸ミミズをしみじみと見た。そしてこれひとつひとつ生きてるんだなあと変なことを思った。一人でカウンターで飲むなんて生まれて初めての事でこういうことが一人で飲むと気になるのかと思った。

改めて何処でも繁雄や誰かと一緒だったことを思い出した。すると繁雄の向こうに否応なくひかるの姿が出て来た。
如何なる経緯かは分からないが、あのひかるという女子高生が自分を救出したということは分かった。あの娘はやはり繁雄が好きなのだ。繁雄に関わっていたいのだ。
案外私と暮らすよりあの娘と暮らした方が繁雄にとって幸福なのかも知れない。きっと子供もすぐ出来る。そう思った。

思えば自分と繁雄が結びつく根拠など何処にあるのだろう。二人ともお互いしか見えない時期があったから突っ走ったものの、繁雄にとって自分を配偶者に選んだことは正しいことだったのだろうか。

碧の前の水槽に糸ミミズが揺れていた。自分たちはこれと一緒じゃないかと思った。この糸ミミズたちがそれぞれ愛だとか恋だとか配偶者だとか不倫だとかに悩んでいたとしたらそれこそお笑いではないのか。誰と誰がくっつこうと神の視点からすればどうでもいいことではないのか。全ては個人のナルシズムではないのか。

事実繁雄は自分以外の女性とエッチ出来たじゃないか、繁雄の相手は自分である必然性はないのだ。男と女はこれだけ世の中に氾濫しているのである。その気になればどの異性とも行為が出来るのである。それをしないというのは別の意味で不自然なのかも知れない。

自分だってそうである。何故繁雄だけを相手と考えているのか。昔ならいざ知らず今どき「貞女は二夫をならべず」などと思っている女性はいない。あの女子高生ではないが、今の社会では性の主導権は「その気」になった女性が握っているとも言えるのである。
これだけ不倫が蔓延しているのに自分はどうして出来ないのか。それは根拠なく「してはいけない」と思っているだけではないのか。浮気のひとつやふたつ平気で出来ない自分がこの行き詰まり状態を招いているのではないのか。
その人しか知らずにその人を唯一と思うということと、複数の男性を知りながら尚且つその人を唯一と思うということは、行為は一緒でも内容の力強さが違うのではないか。

糸ミミズが揺れていた。
碧は目が離せなかった。酔いが回り始めたのだろうか。
突然「手どうなさったんですか?」という声が聞こえた。碧の隣の中年サラリーマンが声をかけて来たのである。
感じのいい男性だった。



空が落ちてくる(6)

「変だなあ、そういう怪我した時はお医者さんアルコールは駄目ですよって言いませんか?」と男は笑った。そして「でも体の中からも消毒しないとね」と言った。面白い男であった。碧は笑っていたらビールを注がれた。

「巨人ファンですか?」と男は聞いてきた。「いえ」と答えると「ああ、よかったあ」と言い「じゃあ山本周五郎ファン?」と聞いてきた。
「いえ」と答えると「よかったあ」と言った。何がいいと言うのか。
「じゃあ」と少し生真面目になり「何か宗教入ってらっしゃいます?」と聞いてきた。宗教?何かの勧誘なのか、それで声をかけて来たのか?碧は身構えて「いえ、入っていません」と答えた。すると「ホントですね?」と念を押された。「ホントです」と答えた。

不妊治療をしていることが知れるとよく宗教の勧誘が来ると不妊仲間から聞かされていた。産まれないのは先代の或いは先々代の因縁があるからだなどと言われるらしい。風水のような縁起担ぎくらいはするがそういう方向の考えは碧になかった。
この人はそういうことは知らない筈だから別の動機だろうが、しつこく誘われたら困るなと碧は思い「宗教には関心ありません」とハッキリ言った。

すると男は「ああよかった」と大袈裟に安堵した。何がよかったというのだろう?不思議に思う碧に男は語った。男の話によると飲み屋で巨人と山本周五郎と某宗教団体の悪口はタブーという話だった。悪口を言うと必ずファンがいて喧嘩を売られるということだった。
だから大きな声では言えないんだけどねと男は巨人の悪口をヒソヒソ言い始めた。
辛辣な悪口に碧は笑った。ビールを注がれた。

何処でどういうテンポで次のバーに行くことになったのか。
折々で「あ、のせられてる、いかんいかん」と碧は思いながら、男の話が楽しくて次の店まで付き合っていた。
水溜りのおたまじゃくしの話になっていた。男の子供の頃の話である。田舎でまだまだ道路に大きな水溜りが出来た頃の話。
洪水の時、水がひいた後あちこちの水溜りに沢山のおたまじゃくしが取り残されてしまうような事があった。台風一過、青空の下のその水溜りは残酷なものだった。照りつける太陽がおたまじゃくしの命の時間をカウントしていた。おたまじゃくしはそんな未来を知る由もなく元気に生きていた。

その元気さが今も心に残ると男は言った。
碧が糸ミミズの話をした時の反応であった。碧は自分の体験を友人の女性の体験として語ったのである。
夫の浮気。傷ついた妻。夫婦って何?男と女が結びつく根拠って本当にあるの?
どんなに沢山クエッションマークをつけても安っぽいドラマみたいで碧は話しながら恥ずかしくなった。
そして糸ミミズの話をした。
すると男は「ミミズは雌雄同体だから不倫はないのでは」などとマジなツッコミで碧を笑わせながら水溜りのおたまじゃくしの話になった。もうすぐ水が干上がり煮干のようになってしまう事も気付かず生きているおたまじゃくし達。自分たちもきっとそういうものなんでしょうねと男は言った。

太陽がちょっと地球を暖かくしてくれたおかげで蛆虫のように湧いた人類。太陽の熱があと少し強くても弱くても発生しなかった自分たちの命。そしてこのバランスがいつまで続くかも分からない。水溜りが消えるまでの繁栄。虚しいと言えば虚しい。
「でもね」と男は言った。
「そんな神様の視点に立ったって仕方がないですよね。だって神様じゃないんだもの。小さなことで生きているのが人間じゃないですか。細かいこと言うなって言われたって巨人軍は酷いですよ。あの札束球団。恥を知れですよ」と男は笑った。
碧も笑った。

「不倫なんてどうでもいい悩みなのかも知れませんね。不倫をした人間を裁けばいいのか、不倫をしたくなるような配偶者との関係を問えばいいのか、それとも元々人は一対一対応に向いていなくて複数の性的関係を持っていた方が健康に暮らせるのかそれは分かりません」
そう男は言った。
「どちらにしても水溜りのおたまじゃくし。清く生きるも良し、ふしだらに生きるも良し。神ではない人間は満身創痍で生きて行くしかない」

男の話は面白かった。時を忘れた。
しかし何時の間にか十一時を過ぎようとしていた。さすがにこれ以上はと碧は思いバーを出ることになった。割りかんを主張したけど御馳走になることになった。

そしてバーを出たら碧は男に肩を抱かれた。
優しくホテルに誘われた。



空が落ちてくる(7)


男は息抜きをしませんかという言い方をした。
水溜りのおたまじゃくし、時には息抜きをしないとねと言った。
碧の頭の中におたまじゃくしのイメージがあった。繁雄というおたまじゃくしの浮気、それがどれほどのものであるのだろう。自分というおたまじゃくしの浮気、それもまたどれほどのものであるのだろう。干上がって行く水溜り。
不妊治療に疲れ果て夫婦仲も悪くなりどうせ妊娠しないんだからと不倫を重ねている女性の話を聞いたこともある。珍しくもなんともない話。

男の静かなエスコートでホテル街の方へ歩き始めた。碧は何故かはっきりと拒めなかった。
現状打破という言葉が碧の脳裏に浮かんでいた。
色んなカップルが歩いていた。この中のどれ位の人が「正規のカップル」なのだろうか。そんな気持ちで道行くカップルを見たのは初めてだった。

あやまちのない人生を歩いて来た。願って来た。でも時にはあやまる必要もあるのではないのか。水溜りのおたまじゃくし。無難に生きても放縦に生きても水溜りの一生。そんな事を思いながら、碧は男に従っていく自分に抗えなかった。
優しくエスコートしていた男の手が少し強めに碧の背中を押した。
そこはホテルの入り口だった。
もう一度現状打破という言葉が碧の心に浮かんだ。

その頃繁雄は懸命に碧に電話を入れていた。
碧の実家に電話を入れたら話が食い違っていた。電話に出た碧の母親の方から「あら、お久しぶり。今電話しようと思っていたの。碧います?」と言われてしまったのである。うまく話を合わせて電話を切ったが、まったく実家に帰るなどという話はないようであった。金魚のところと何人かの女友達にも電話をしたがいなかった。行っているわけがないがひかるにまでも電話した。

パニックになった繁雄が考えたのは当然自殺だった。
もう一度決行しようとしているとしか思えなかった。何故実家に帰るなどという言葉を信用したのだろう。繁雄は自分のお人よしを呪った。
そして、暫くすると事故説も浮上して来た。何か不慮の事故が起きて病院に担ぎ込まれて意識不明の状態でいるのではないか。「心の旅路」という記憶喪失の映画が頭に浮かんだ。
また一方で夜の街で暴漢に襲われてレイプされているのではないかなどとも思った。黒い想像はとめどなく広がった。
どのような経緯であれ真っ暗な街の真っ黒な河に碧の死体が浮かんでいるイメージが横切った。

電話は繋がらなかった。
メールを入れた。何回も。
その時突然チャイムが鳴った。
「碧!」と叫んでドアを開けるとひかるが立っていた。
ひかるは「見つからない?」と聞いた。「ああ」と不機嫌に繁雄は答えた。ひかるは「私が来ても仕方ないんだけど」と身の置き所がない顔をした。
二人ともまさか碧が不倫をしようとホテルに入っているなどとは想像も出来ず自殺と事故のイメージを限りなく広げ罪悪感に責め苛まされた。

そして一方ホテルに入った碧は思わぬ事に遭遇していた。
生まれて初めての碧の不倫は達成出来なかった。
ホテルに入ってすぐ碧に生理が訪れたのである。
碧の気持ちは一時に現実に引き戻され酔いを醒まさせた。祖母の言葉を思い出した。
「体がそげんなっとらんとよ」
碧の体が不倫を拒否していた。
碧は男に詫びてホテルを出ると夜の街に走り出た。

コンビニでナプキンと下着を買いトイレを借りた。コンビニを出るとあちこちで道路の夜間工事が始まっていた。繁華街の夜がこのような騒々しさに満ちているとは思っていなかった。こんな深夜に一人で歩いたことなどなかった。酔いが醒めてみると恐怖が湧き起こった。ひとりぽっちだった。繁雄を思い浮かべその日初めて携帯の電源を入れた。何のメッセージも入っていなかった。電話しようと思ったが逡巡した。碧は騒々しい街の中を追い詰められた鼠のように歩き回った。
そして暫くして再び携帯を見た。繁雄のおびただしいメーッセージが入っていた。先ほどまで電源を切っていた為センターから情報が入るまでタイムラグがあったのだ。たくさんの繁雄のメールが入っていた。

涙が出た。
碧は電話した。繁雄の声が聞こえた。「何処にいるんだよ」と叫んでいた。
碧は言った。
「シゲちゃん。私ひとりぽっちだよ。何処にも行くところがないよ」
繁雄は「何処に行こうとしてるんだ。何処にいるんだ」と叫んだ。
碧は「帰るところはシゲちゃんの所しかないよ」と泣いた。
繁雄もまた電話の向こうで泣いているようであった。
 

サルベージ情報⑯  小さな願い⑳

 投稿者:あいどん(管理人)  投稿日:2017年11月15日(水)16時40分6秒
  空が落ちてくる(1) 

少し話はさかのぼる。
繁雄が出勤した時碧はまだ布団の中だった。ここ数日の突き詰めた話の後ではとても起きられるわけがないと繁雄は思った。おそらく雨戸も開けず泣き濡れるのだろう。
繁雄は覚悟していた。
昨夜碧のことを「変」と言った以上、つまり碧を傷つけた以上碧の傷ついた心と共に生きて行こうと。智恵子抄ではないが碧がどんな状態になろうと共に精一杯生きて行こうと。もちろん碧に健康な心を取り戻して貰いたい為にあえて苦言を呈したつもりだが、どのようにイレギュラーするか分からない。
どんな事態になろうと、どのような不測の事態が訪れようと自分には償わねばならぬことがある。そう覚悟して出勤した。

その繁雄に電話が入ったのは丁度会社の昼休みだった。ひかるからだった。「碧さんが変」とひかるは言った。「変って何?家に来たのか?」と繁雄は聞いた。当然ひかるの家に殴りこんだのかと想像した。家を知るわけがないがどんな事が起きるか分からない。あの「クジラのしっぽ」でだってよく襲って来なかったものだと思うところが繁雄にはあった。碧がショックを受けるだけで帰ったのが不思議なくらいだった。

するとひかるはおかしな事を言った。
「トイレの中で倒れているみたいなの。部屋からは音楽が聞こえてくるから居るのは間違いないと思って何回もチャイムならしたの。でも全然返事がなくてトイレの窓から覗いたら碧さん倒れてるみたいなの」
繁雄には何のことだか分からず「今何処にいる?」と聞いた。するとアパートにいると言う。「何故そんなところにいるんだ」と聞くと「気になったんだよ。シゲちゃんにあんなこと言われて」とひかるは言った。

碧に「クジラのしっぽ」で会った事を追求された後繁雄はすぐにひかるに電話して叱責したのである。かなり興奮していたこともあり言葉も荒く罵った。もう二度と我々に関わらないでくれ、俺たちは懸命に生きているだけなんだと怒鳴った、そのことを言っているのである。

いや電話でひかるを捕まえるまでにはもうひとつエピソードがあった。
電話をしてもなかなか繋がらず、繁雄はかなり気が高ぶっていたせいもあり、完全に態度を硬化させた碧を尻目にひかるの家に向かったのである。とにかくトラブルメーカーのひかるに怒鳴らないと気が治まらなかった。気持ちの持って行き所がなかった。

しかし家にもひかるはいなかった。
あの善良そうな母親が出て来て「この前はどうも」と丁寧に頭を下げられたりした。いないのでは仕方なく、繁雄は「いえ通りがかったのでちょっと寄っただけですから」と言って退散するしかなかった。
ひかるの家を出てもう一度ひかるに電話しようと携帯を取り出していたら、後から「あの」と声をかけられた。振り向くと意外にも母親が立っていた。

母親は「あの、申し訳ありません。ひょっとしてご迷惑おかけしてるんでしょうか?」と九州訛りで聞いた。繁雄は内心ドキリとしたが「いえ別に」ととぼけた。
すると「あの男の人の事でしょうか?」と聞いた。「あの男?」と繁雄が聞くと「あの新聞に載っていた」と母親は言った。中年男のことを言っているのだ。
母親の話によると二度ほど中年男も訪ねて来たことがあるということだった。一度は名刺まで置いていったという。その経緯で母親も男を気にしているのである。

母親は突然涙ぐみ「あの子は悪い子じゃないんです。もしご迷惑おかけしているんであれば、こらえてやって下さい」と言った。繁雄は「いえ、そんな迷惑だなんて。その男の人の事ではありません。知りません」と言うしかなかった。

母親は「そうですか・・」と俄かには信じていない表情をして、そして思い切ったような顔でひかるへの心労を語った。
悪い子じゃないんです。頭のいいとても良い子なんです。いえ良過ぎるくらいで、どうしてこんな頭の悪い自分たち夫婦にこんな子が生まれたのか分からないんです。お小遣いも自分でアルバイトをして稼いで来て要求なんかしないし、夜遊びはするけど成績はいいし、友だちもたくさんいるようだし、とにかく全てのことにそつが無くて親としては何も言えないんですと母親は言った。

でもとても心配なんです。何を考えているのか分からないんですと母親は地獄を語り始めた。




空が落ちてくる(2)


あの子は「あなたは何故生きているの」なんてことを聞くんです。分かるわけないじゃありませんか。
何故生きているのかなんて聞かれたって分からないですよ。そんな事どうして考えるんでしょう。私も夫もそんな事考えてきたような人間じゃないんです。頭も悪いし、人は一生懸命に生きていればいいくらいのことしか考えていません。何故生きているなんて聞かれて誰が返事できるんですか。あの子は確かに私が産んだ子ですが、でも全然私の子じゃないみたいです。小さい頃は父親に似ているとか母親に似ているとか言ってたんですけど今は誰にも似ていません。まるで別の世界から来た子のようです。子供が親の分身なんて言うけどまったく私には信じられません。どんな事を言っても、もうまるで模範的な答えしか返って来ないんです。もう完全にこちらのことが読まれているって感じで、全然もうあの子の心に入っていけないんです。もう分からないんです。
成績もいいし警察のご厄介にもならないし、もう親としては何も言えないんです。とにかく悪い子じゃないんです。勘弁してやって下さい。

繁雄は母親の言葉を聞きながら、まるでとんでもない罪を犯した子供の親の話を聞いているような気がした。勿論ひかるは犯罪者ではない。でも「人間なら」という共通の認識、つまり一般性、普通性、平凡性が覆されたショックは同じように思えた。

とても残虐な少年犯罪を犯した子供の親にはよく親の責任を問えという意見が出る。子供というものは親の分身であり親の躾や教育によって育っていくものだという認識があるせいだ。しかしそれはどうなのだろうと今母親の話を聞いて繁雄は思った。

子供は親の分身なのだろうか。そして子供は教育を受容するだけで変化する簡単な存在なのだろうか。

例えば天才という存在がある。信じがたき偉業を成し遂げた人。
その人を見て、世の人々は親の責任を問うだろうか。どんな躾をしたとか、どんな教育をしたとかある程度は言うだろうが、どちらかと言うと「鳶が鷹を生んだ」という世界で納得してしまっていないだろうか。
それは犯罪ではないというだけで普通さや平凡さという世界を逸脱したものであることは間違いない。なのに人々は一方の逸脱者、つまり信じがたき犯罪少年に対しては親の責任を問い、一方の逸脱者に対しては「鳶が鷹を生んだ」、つまり親と子の関連はないと認識している。そこに矛盾はないのだろうか。

親と子は繋がっているけどそれはコピーではない。自分に似ているだの似ていないだの、単に親のナルシズムの世界にいるだけの存在ではない。子供は子供として別の人間でしかなく、ある意味、時代の産物でもある。そのことをもっと考える必要はないのだろうか。

ひかるという存在。
繁雄はひかるの無軌道な青春の背後に「暗い生い立ち」があるのではないかなどと想像していたが、それはあくまでも親と子の間には関連があるという「常識」においての話である。
突然信じがたき犯罪を犯す少年がいるように、天才という例があるように、子供というものは親とはまったく関係のない世界も十分に持ち合わせた存在として考える必要があるのではないか。
そう繁雄は思ったのだった。

自殺未遂をした男の関係ではないかという母親の疑いを繁雄ははっきりと否定しその場を辞した。
思いがけず長話になり碧のことが心配になっていた。急ぎ足でアパートに帰りつく寸前携帯が鳴った。ひかるだった。
ひかるは「電話くれたあ?ごめん今何処?」とまるで繁雄からデートのお誘いが来ているかのような対応で言っていた。繁雄はその気楽さに怒りが爆発した。

全てのことがバレてとんでもない事になっている。お前にとってはロールプレイイングなのかも知れないが、碧との関係は俺にはたったひとつの、かけがえのない関係なんだ。ロールプレイイングは他でやってくれ、これ以上俺たちに関わるなと怒鳴って電話を切った。最後は涙声になっていることが自分でも分かった。

そのような事があってのことであった。
なのに何故ひかるはアパートにいるのか。どういうことを企んでいるのか。碧に何をしようというのか。繁雄の怒りは再び頂点に達した。
するとひかるは「碧さんに会いたいと思ったの。碧さんに子供生む事は正しいって言ってもらいたかったの」と言った。

繁雄は何を言っていると思った。人騒がせは大概にしろと思った。
会社で人がいるにも関わらず怒鳴ろうと思った。しかしひかるはベソをかいていた。
「碧さん血を吐いてるみたいなの。トイレの扉に血がついてる」と言った。

繁雄は正に不測の事態が起きたことを悟った。


空が落ちてくる(3)


ひかるは繁雄に教えられた通り植木鉢の中に隠してある鍵を取り出した。
何処の家庭でも万が一に備えて郵便受けだとか牛乳箱の裏に鍵を隠している。それを教えてもらったのだ。
ひかるは扉に鍵を差し込みながら、もし内側からチェーンがかかっていたらベランダの窓を叩き割らなくてはならないと思った。なるべく面倒な事にならないでくれと願うような気持ちで鍵を回すとチェーンはかかっておらずひかるは思わず「ラッキー」と声を上げそうになった。

しかし部屋に入ったひかるは異様な臭いに驚いた。
それは後で分かることだが部屋一杯に充満した血の臭いであった。
ひかるは恐る恐る「碧さーん」と声をかけながら入りトイレ方向を見た。開いた扉から二本の足が出ていた。足にはジーパンが引っ掛かっていた。もう一度呼びながら近づくと便座から崩れ落ちそうになって座っている碧がいた。真っ赤に濡れたタオルが左の腕からほどけ落ちていた。手首には血塗られた傷があった。ひかるは血を吐いているのではないことを知り戦慄した。

「碧さん!」と体を揺すると「う」とかすかに碧は呻いた。生きている。ひかるはもう一度「碧さん!」と呼んだ。碧は揺すられて便器からすべり落ちた。パンティを膝までぬぎおろし、あの部分を剥き出しにしたみっともない女性がひかるの目の前に死体の如く横たわった。

ひかるはすぐに救急車を呼び繁雄に連絡を入れた。繁雄はやっと会社を早退し駅に向かっているところであった。

繁雄は狂乱して怒鳴った。
お前のせいだ。何としても助けろ。碧が死んだらお前を殺す。
そう怒鳴った。
ひかるにとっては立て続けに二人目の自殺者であった。しかも今度は明らかに自分のせいである。
「碧さん・・」悄然として碧を見た。性器に目が行った。繁雄が愛してやまぬその部分。繁雄の子供が出て来るとしたらおそらくここでしかないであろう部分。
遠くに救急車の音が聞こえたような気がした。

あわててひかるは碧にパンティを穿かせようと思った。こんなみっともない姿を男たちに見せるわけにはいかない。手間取ったが血で汚れていたジーパンも穿かせた。トイレのドアを閉めようとしたらまだ排泄物とトイレットペーパーが流されずにあった。
ひかるはレバーを捻り流した。すると涙がこみ上げて来た。これが死なのかと情けなく思った。

ひかるは碧に言った。
「碧さん死なないで。死なないで。シゲちゃんの子供を産む権利があるのは碧さんだけなんだよ」
碧は真っ青な顔で息すらしていないように見えた。
ひかるは言った。
「碧さん。子供を生むことは正しいって私に言う筈じゃなかったの?私に言って。子供を生むことは正しいって私に言って。生まれ落ちることは正しいって言って。私をぺちゃんこにするような反論をして」
ひかるは初めて生々しい死に直面していた。

一向に救急車は来なかった。さっき聞こえた救急車の音は勘違いだったのだろうかとひかるは思った。
道が分からず迷っているのだろうか。
ひかるはバス通りまで出て誘導した方がいいと思った。
外に出ると信じられないほどの快晴だった。やりきれない程の青空から太陽が容赦なく照り付けていた。
室内との落差にひかるは眩暈がした。

バス通りに出るとすぐに救急車がウルトラ警備隊のように向かって来るのが見えた。ひかるは手を振った。キラキラとランプを光らせてやって来る車を見ながら空の青さが目に沁みた。こんなに健康な空の下で死んで行こうとしている人がいることが信じられなかった。

ひかるは思った。
もし碧が死んだら、碧はもちろんのこと繁雄も自分も青空を失くす。


空が落ちてくる(4)

手首を切ったくらいではなかなか人は死なない。碧が途中で血が出ていないように感じたのは正しかった。結局静脈しか切っていないのである。静脈とは心臓に戻って行く血管である。動脈を切ればまだしも静脈を切ったくらいではなかなか死なない。
そう云う意味のことを年輩の医者は碧に言った。
「動脈切ったら凄いよオ。天井まで血がとぶからねえ。バケツなんかにはいりゃしない。はははは」と医者はわざとぞんざいに笑った。くよくよしている場合じゃないよという意味がこもっているようだった。碧は苦笑するしかなかった。

病院で気がついてから体の芯がボーッとしていた。死ねなかったのかという気持ちが自分を支配していた。死という希望を絶たれたのだという虚脱感が否応もなくのしかかって来ていた。
繁雄は何も言わなかった。
痛々しいほど肝心の事には触れず、売店の中年女性があるアニメキャラクターのオバサンに似ているとか、ここの食堂のざる蕎麦は結構美味しいらしいとかそんな話ばかりしていた。

虚脱感が強すぎてもう思考が進まないのだが、どうして昼間に自分は救出されてしまったのだろうという疑問が払拭出来なかった。絶対自分は夜に発見されると思っていた。だからチェーンも掛けなかったのである。
繁雄はたまたま早退したんだと言ったが何故早退したのだろう。
そしてあの朦朧とした状態の時に聞こえていた声。女性の声。あれは何だったのだろう。

声は言っていた。
子供を生むことは正しいと言って。私をぺちゃんこにしてと。
あの声は何だったのだろう。
私はトイレで倒れたように思う。排泄をしたところまでは覚えている。しかしあの後どうなったのだろう。私はちゃんとお尻を拭いたのだろうか。ちゃんとジーパンを上げたのだろうか。まったく記憶がなかった。何かとんでもなく恥ずかしい状態が脳裏に浮かんだ。

何本も何本も切るために俗に「ためらい傷」と言われる傷口を何針か縫ってもらい「かすり傷かすり傷」と医者に笑われながら碧は退院した。
総て繁雄の家族にも碧の家族にも内緒のことだった。お互いに話し合ったわけではないが誰にも話せない二人だけの秘密という気持ちは一緒だった。
布団に横になろうとする碧に繁雄は「明日は休むから」と言った。碧は返事をしなかった。多分一人で家に居させられないという心配があるのだと碧は思った。

碧は繁雄がひいてくれた布団で眠った。
体の芯から疲れていた。どれ位眠ったのかふと目覚めると深夜らしくスモールランプの下で繁雄も眠っていた。時計を見ると午前二時過ぎであった。碧は随分眠ったような気がして、このまま目が覚めたら嫌だなあと思ったが見事に再び眠った。
信じられないほど碧は眠った。こんなに人は眠れるのかと思うほど眠れる自分を発見しながら碧は眠った。

目が覚めるとテレビがついていた。イヤホーンが挿してあり音は聞こえなかったが、お昼のバラエティ番組であることが分かった。
繁雄はいなかった。
買物にでも行ったのだろうかとトイレに立ったら表から声が聞こえた。隣の奥さんと繁雄が話している声だった。今回の救急車騒動について繁雄は詫びていた。隣の奥さんは「大したことなくて良かったわねえ」と言っていた。まさか自殺未遂などとは言っていないだろうがどういう嘘をついたのか。

隣の奥さんは「親戚のお嬢さんがいらしてて良かったわねえ」と言った。
親戚のお嬢さん?碧は怪訝な表情になった。
「救急車が来た時高校生とは思えないテキパキした行動でびっくりしたわあ」と奥さんは誉めた。
高校生?
碧に思い当たる女性は一人しかいなかった。
何故あの時女性の声が聞こえたのか碧は分かったような気がした。

その夜繁雄は「明日も休むよ」と言ったが碧は「いいよ会社行って」と言い「明日から暫く実家に帰るから」と言った。
繁雄は何もかも実家に暴露されてしまうのかと覚悟をした。
碧は「傷の消毒と化膿止めの薬のことがあるから明後日には帰って来る。いいでしょう?」と言った。
繁雄には止める権利はない。

翌日碧は繁雄を送り出してからアパートを出たがとても実家には帰れないと思った。
こんなみっともない傷を晒してどんな顔で帰ればいいのか。
デパートや公園で時間潰しをしているうちに夜が来た。
 

サルベージ情報⑯  小さな願い⑲

 投稿者:あいどん(管理人)  投稿日:2017年11月15日(水)16時37分2秒
  妊娠こそすべて(1)


ある時「しよう」と碧が言った。
何故なのか分からない。気持ち的にあるふんぎりがついたのだろうかと繁雄は思った。
タイミングの復活。
久しぶりに碧といとなみが出来る喜びに繁雄はうちふるえた。これがそのまま「和解」になるなどとは思わないが大変な一歩だと繁雄は思った。

武義亡き後、会社の問題は文夫が暫定的に継いでいるので当面問題なく、同居問題も碧の精神的な部分も考えて保留にするということになっていた。
また再就職に関しても今仕事というストレスを碧に与える訳にもいかず、結果として碧は専業主婦となっていたのである。

碧は病院の治療に専念することが出来、毎日妊娠を第一とする暮らしとなっていたのでこのような気持ちの変化が表れたのだろうと繁雄は思った。休日には初めて子宝湯や子授け神社に行った。柘榴の絵など縁起モノやゆかりのものを買い揃えた。
全てはうまく回り始めたかのように思われたが、実はこれが変調の始まりだったことに繁雄は気づいていなかった。

ある時誘拐事件が発生してTVなどのマスコミが騒然となった。病院から赤ん坊がさらわれたのである。二日経っても見つからず赤ん坊の生死が危ぶまれる局面となり、碧は一日中ニュースにかじり付いた。
「可哀想だよお」と我が子をさらわれた母親の気持ちを思って泣いた。繁雄も痛ましい事件だと怒りが湧いた。

しかし犯人が逮捕されて二人は驚いた。犯人は女性だったのである。子供に恵まれない女性が思い余って犯行に及んだのであった。
すると碧は犯人の女性に同情して泣いた。「この人は悪くない」と泣いた。碧は子供をさらわれた女性に同情して泣いていたのに、この時にはさらった女性に同情して泣いていたのである。まあこれはどちらにも同情すべき事件だったが、碧の素直な涙はその矛盾を自分で対象化出来ていないように思えた。
この時が碧の変調を感じた最初だった。

エッチをする時や治療に専念している時は明るく前向きだったが、生理が来ると強烈に落ち込むようになった。基礎体温が下がった段階でこれまで以上に泣き濡れて寝込んだ。
繁雄が会社から帰ると、一日中雨戸も開けず満足に食事も摂らずにいたことが繁雄には分かった。
妊娠に期待する大きさの分落ち込むと酷かった。

街中で車の後ろに「赤ちゃんが乗っています」という札が下がっていると本気で怒った。あてつけみたいに下げるな、赤ん坊を車なんかに乗せるんじゃないと怒った。
ある時は地球を、人類を救うのよと言った。ダイオキシンよ。小さなことと思っているけど放っておくと大きな大きな蓄積になるのよ。添加物はいけないの。駄目な食べ物は食べないの、人類はこのままじゃ駄目になると言った。
テレビのCMが子連れファミリーを強調すると怒った。公園で子供を叱る親を見ると叱るくらいなら私にくれと泣いた。ファミレスの四人席に座ると空いた二つの椅子が淋しいと涙ぐんだ。

「何が違うと言うの。あいつと私と何処が違うというの。あいつには羽が生えているとでも言うの」
碧は鬱に入ると布団の中でそういうことを言った。
「神様どうしてこんな意地悪をするの。私は嫌われ者ですか。神様私に力を下さい。私のような者にも力を下さい。これが私の人生ですか。こんな人生をあなたが与えたのなら私はあなたを憎む」
言っても仕方のないことを碧は言っていると繁雄は思った。

そしてその状態を抜けるとうって変わって前向きになった。妊娠に向かっての行動が正しさの基準で、ウォーキング、青竹踏み、風水などの縁起担ぎに精を出し、食事はこれまで以上に根菜や温かいもの食べるように努めた。繁雄は精子を増やすと言われる牛蒡を毎日食べさせられた。冷たいものは体を冷やしていけないとアイスクリームは勿論ジュースや氷菓も食べなくなった。

そのような時に碧は言った。
「あの女子高生に会いたい」と。繁雄は驚いて「何故?」と聞いた。
碧は自分が正しいということを言いたいのだと言った。子供を産むということは正しいということを言いたいのだと言った。
言ってどうすると繁雄は思い、疑問を投げたが碧は「だって正しいことだもん」と答えにならない返事をした。やはりひかるに対する屈辱感があるのだろうと繁雄は思った。



妊娠こそすべて(2)


数日後繁雄はひかるに会った。
とても碧にひかるを会わせる訳にはいかないが、もし碧がそのことに拘り続けヒステリー状態にでもなったらなんらかの手を打たなくてはならないと思ったのだ。碧がひかるの住居を探り出し押しかけでもしたら修羅場になるということも考えねばならず、それを防ぐ為には一度ひかるに会う必要があった。

「ふーん」とひかるは皮肉っぽく笑った。「それじゃ私と同じだね」と言った。「同じ?」と繁雄が聞くとひかるは「神様憎んでいるんじゃまったく同じ」と笑った。
日曜日の午後「クジラのしっぽ」での会話だった。碧には休日出勤と偽ってお昼頃に待ち合わせた。砂浜やボードウォークの上ではたくさんの家族連れと若者たちがバーベキューを楽しんでいた。

ひかるはあの時碧に「生まれたくて生まれて来る者はいない」と言った。「人を生むことは傲慢だ」とも言った。ひかるもまた与えられた命に価値を見出せずに神様を憎んでいるのだろう。それが繁雄から見ると無軌道とも思える行動の源になっているのだろうと思った。

ひかるは「それじゃ何?私はシゲちゃんの奥さんに会えばいいわけ?」と言った。
「冗談言うなよ会わなくていい。ただこういう状態だから、ひょっとして押しかけて行くようなことがあると困るから根回しをしているだけだよ」
「私の家、奥さん知ってるの?」
「知らないよ。でも女の執念は恐いからな、君のように」
「はは、言ってくれるなあ。恨んでる私のこと?」
「ああ、恨んでるさ。とんでもないことしてくれて。まあ自業自得だから君を恨む筋合いじゃないけど」
「悪いことしちゃったね。後悔してるんだワタシ」
「おいおい」
「ホントだよ」
「これ以上からかうなよ」
「あの時からかったって言ったのウソなんだよ」
「やめろって」
「最初はそのつもりだった。『クジラのしっぽ』何処ですかって大人しい女っぽく迫ればイケルって思ってた。ほら要するに男の人は処女っぽいのに弱いからね。それに『クジラのしっぽ』って言えば絶対ビックリすると思ってたからイケルって思った。でも全然のって来なくて、『コイツ意外とカタイぞ』とか思っちゃって、はは、なんだかいつの間にか長期戦に突入しちゃって、段々本気になっちゃったんだよね・・参ったよ」
「いくらからかっても、鼻血も出ないぞ」
「そう言わないでよ。信じてなんて言えた義理じゃないけどホントだよ」
「やめろって。この前だって俺にメール寄こしてからかおうとしただろう。いくらボーッとした俺でも、もうひっかからない」
「もおー、あの時も本気だよ。ウソじゃない。だってあんなことあったんだもん、まいっちゃってさ」
「あんなこと?」

ひかるは「あの男だよ。新聞見なかったの?」と驚いた顔になった。
「新聞?知らない」と繁雄は言った。あの男とは中年男のことだった。地方版の記事に載っていたというのだ。車に「自殺サイト」の若者のように練炭を乗せ自殺を図ったということだった。
発見が早く一命をとりとめたのだが意識が回復せず、どうやら植物人間状態になるのではないかと危ぶまれていた。本来自殺未遂程度では記事にならないが、練炭の火が燃え移り車がぼやを起こして消防車が出動してしまう大騒ぎとなり記事になってしまったらしい。

その自殺の前にひかるは中年男と会っており、一緒に死んでくれなどと言われて困り果てていたということだった。
「自殺癖は前からだから放っといたんだけどね」とドライなひかるもさすがに後味の悪いものを感じていたらしかった。でも「国道で撥ねられた猫の死体見た時のような感じだけど」とひかるは言った。
それでも万が一自分のことが事情聴取の対象になっていたりすると困ると思って、ひかるは内緒で病院を覗くということもしたらしい。

するとあの家庭内離婚で冷え切っていた奥さんが健気に信じられない程献身的に看病をしていて、こんな事言ったらヘンだけど凄く生き生きしていて、感動ドラマの主人公みたいだったとひかるは言った。
相当酷い夫婦の内情を聞いて悪妻のように伝えられていたひかるは「やっぱりねって感じだったよ」と言い「結局ロールプレイイングなんだよね」と続けた。
繁雄は「ロールプレイイング?」と聞いた。
「うん。みんな役割を演じているだけなんだよ。愛だとか恋だとか本当の人生だとかドロドロした事を言うけど、おまけにあいつみたいに本気で死のうとする奴もいるけど、でもそんな命をかけるようなものは何ひとつないんだよね。みんな、みんな役割を演じているだけなんだと思うよ。それがどうして分からないんだろう」とひかるは言った。



妊娠こそすべて(3)



命を賭けるようなものは何もなく役割を演じているだけなのだ。
その認識はひかるの核心なのだなと繁雄は思った。
「クジラのしっぽ何処ですか?」と聞いた生娘のようなひかる。中年男の前で時には夜叉のようになり時には愛人としても甘えるひかる。伝法な極妻のようなひかる。海を前にして途方に暮れて一人ぼっちだと泣くひかる。そして「子供を生むってそんなにいいことですか?」と碧に聞くひかる。

何処にひかるの正体があるのか。いや正体などという考え方が違っているのかも知れない。人の営みは「感動ドラマの奥さん」のように全て役割演技に収斂されていくのかもしれない。
高度に豊かな社会の中で貧困も飢餓もあからさまな生死も「水面下」に押しやられた世界では「生きる根拠」は希薄化の一途を辿るだけなのかも知れない。ひかるにとって全ては「ある役割を演じているだけ」という感慨をもたらすのかも知れない。

社会的成功という生々しい「生きる根拠」もあるのだろうが、男社会の中では男の成功に小判鮫のようにくっつく生き方しか多くの女性が出来ない世の中である。
そしてその男社会の戦士たる男だって、「勝利こそ全て。勝利せざるものは怠け者だ」という価値観で生きる活力を得ていた時代はすでに終わっている。勝利の先にあるものもある程度見えてしまっている。全ての事は絶対的価値を無くしデジャビューの如く「ご存知」のものとなってしまっている。

そんなことを思う繁雄の手をひかるはそっと握った。
何をする?と繁雄は思った。
「シゲちゃんは不思議だよね」と言った。繁雄は「何が」と聞いた。
「分かんない」ひかるは頭を繁雄の肩に寄せた。
また策略が始まったのかと繁雄は思ったがそうではなさそうだった。
「シゲちゃんはかけ引きがないよね」とひかるは言い「どうしてなの?」と更に聞いた。
「どうしてって・・能力がないからだよ」と繁雄は答えた。
「ふふん」とひかるは変な笑い方をして「能力がないってのは凄い能力だよ」と言った。
何を言っているのだろうと繁雄は思った。
「凄いよ能力がないって」とひかるはしみじみと言った。
「おいおい」と繁雄は苦笑した。
闘争力のない自分。ドッジボールすら満足に出来なかった自分。それはひかるのように権謀術数を当然のルールとして生きて来た者には珍しく見えるのかも知れない。

その時ひかるは「見て」とある親子連れを指差した。よちよち歩きの赤ん坊を母親が「そっち行っちゃ駄目よ」と叱っていた。でも赤ん坊は行きたがり母親に掴まれた手が不満でベソをかいていた。父親は缶ビールを呑んでいた。

ひかるは「あの三人の中で支配者は誰だと思う?」と聞いた。
「支配者?」と繁雄が聞くと「そう支配者」とひかるは言った。父親なのか母親なのか返事によっては男社会を糾弾しようというのだろうか。
赤ん坊は母親の手を振り払い砂浜に走り出した。父親が慌てて追いかけ抱き上げて戻って来た。その時缶ビールがシートの上にこぼれてしまい母親は始末に焦った。赤ん坊が何故か「めっ」と叱られたりした。
繁雄は無難に「あの夫婦が支配者なんじゃないのか」と答えた。
ひかるは「ふふん」と笑うと「ハズレ」と言った。
「じゃあ誰だい?」と繁雄は言った。
ひかるは「赤ん坊が支配されているように見えるけど、でも本当の支配者は赤ん坊よ」と言った。そして「つまりあの赤ん坊は支配されながら親を支配している。母親と父親は赤ん坊を中心に回っている」と続けた。

繁雄は当たっていると思った。
力関係では圧倒的に親が支配しているのであろうが、余りに無力な赤ん坊はその無力さ故に両親を支配するという逆転現象が起きていると思えた。
無力な存在は人を捕らえ支配する。力の強さだけが支配の基準ではない。このひかるという娘は恐るべきことに気付いている。そう繁雄は思った。

ひかるは組んだ腕に力を入れ「ずるいよシゲちゃんは」と言った。繁雄は返事をしなかった。「ずるいよ。かけ引きがないんだもん。能力がないって言うんだもん。赤ちゃんと一緒じゃないか」とひかるは言った。
「赤ちゃんと一緒か」と繁雄は苦笑した。参った。いいように言われている。
「まったくなあ、勘が狂っちゃうよシゲちゃんみたいな人は」とひかるも苦笑して「だから酷い女だと思わないでね。私はシゲちゃんの子供だったら絶対堕ろさないんだから」と言った。
繁雄はまた籠絡されそうになっていることに気付き「馬鹿!」とひかるの手を振り払った。「まーたマジになるんだから」とひかるは笑いペロッと舌を出した。繁雄はもう一度「馬鹿」と言った。ひかるは笑った。
そして笑いながらハッとした。視線を感じたのだ。繁雄の背中の方向だが、確かに誰かがいると思った。しかしひかるが見た時にはその木陰には誰もいなかった。
いなかったがその木陰に確かな恐るべき意志があったことをひかるは感じた。



妊娠こそすべて(4)

その数日後碧は手首を切った。
バケツに適温のお湯を入れそこに切った手首を浸した。ある人の話によると手首を切った瞬間は凄い開放感があるということだったがそんな事はなく只痛いだけだった。
死だけのような気がした。自分を慰めてくれるのは死だけのような気がした。バケツの中にどんどん広がっていく血が痛さを通り越して自分をある世界に導いてくれるのだと碧は思った。居間に広げたサマーベッドに横になり、好きなCDを聞きながら碧はバケツの中の血を見詰めた。

しかし暫くするとお湯の「濃度」に変化がなくなった。
碧はバケツから腕を引き上げ自分の手首を見た。傷はまるで豆腐に切れ目をいれて醤油をかけた時のように傷だけがパックリと開いて赤く血が見えた。しかしもうさっきのように血は溢れていなかった。碧は血が出ていないので死ねないのではと思った。
碧はもう一度手首を切った。痛かった。痛いのでお湯に腕を突っ込んだ。
また「濃度」が増え始めた。
これでよいのだと碧は思った。

繁雄が悪いのではないのだろう。繁雄は誠実であるのだろう。自分が「クジラのしっぽ」までつけて行ったのがそもそも悪い。それを後で問い詰めた自分が何よりも悪い。
繁雄の弁明も十分理屈の通ったものだし分かる範囲だ。だから自分が絶対に悪いのだ。
自分が変だということは分かっている。どうしてこんな事をするんだろうと思うことがよくある。ハッと気づくと自分が何故ここにいるんだと思うこともある。
繁雄の反応を見るだけで、自分がおかしなことしちゃったんだと気づく。でも止まらない。
つらい。とてもつらい。そんな自分に死は希望だ。

本当に手首を切れるかと思っていたけどちゃんと切れた。お風呂を汚しちゃいけないからバケツにしたけど失敗だったと碧は思った。お湯の温度が下がりまた痛み始めていた。自殺を決行出来るかどうか心配だったのでワインを飲んで勢いをつけていたのだが更に飲んだ。
するとオシッコがしたくなった。
自分は死のうとしているのに体は元気に活動していた。血が床に落ちて汚すといけないのでタオルで手首を巻きトイレに行った。
トイレは暑かった。窓を開けた。風が心地よかった。

トイレから出るとCDが終わっていた。リモコンでリピートモードにしてから再び手首をお湯につけた。もうお湯と呼べる温度ではなく湯沸かし器でお湯を足そうかとも思ったが面倒だった。ワインの酔いが回って来ていた。

昨日一昨日とたくさんの話を繁雄とした。
繁雄が自分を裏切っているのではないということは信じていいと思った。繁雄は信頼すべき男性だ。
しかし、昨日の話で一番ショックだったのは「もう不妊治療やめよう」と繁雄が言ったことだった。
繁雄に泣きながら「もう、暫くやめよう。碧ちょっと変だよ」と言われたことがこたえた。碧は「どうして?」と反論したが、反論しながら「とうとうここまで来た」という気持ちになっていた。それは野球でもサッカーでもボクシングでも何でもいいが、明らかに劣勢で奇跡の大逆転なんてありえないのに懸命に頑張っている選手の姿に重ねられるものが自分にあったからである。

駅伝のランナーが不慮の体調不良に襲われて、なんとしても次ぎのランナーに繋ぐまでは頑張りたいと思っているのに、とうとう監督に抱きすくめられた時のようだった。繁雄の気持ちが分かるのが無念だった。
もちろん繁雄は「治療を少し休もう」という言い方をしていたが、碧には「もういい加減やめよう」という残酷な言葉に聞こえた。

繁雄は言った。
「不妊は病気ではない異常ではない。まだ分からないけど、僕たちは若いしまだ分からないんだけど、もし、もし万が一自分たちに子供が生まれないという宿命があるのなら、それを引き受けようよ。自分たちが生まれて来て結ばれた意味はひょっとするとその中にはなく、別の事の中にあるのかも知れない。神様はお前たちの意味は違うよと言っているのかも知れない。僕たちの生まれた意味は妊娠だけじゃないのかも知れない。そういう考え方もしてみようよ」
それだけ言って繁雄は泣いた。
碧に何が言えるというのか。

なんという事だろう碧は冷たいワインを久方振りに飲んでお腹が変になりだした。トイレに行きたくなった。自分は死のうとしているのに自分の体は着々と生きていた。碧は手首にタオルを巻きトイレに入った。外の風が入って来て涼しかった。
碧は排泄しながら生も死も自分のコントロール通りにはいかないなと思った。
そして悔し涙にくれた。
碧はトイレで意識を失くした。
 

サルベージ情報⑯  小さな願い⑱

 投稿者:あいどん(管理人)  投稿日:2017年11月15日(水)16時31分33秒
  崩壊(4)


節子は言った。
「普通の気持ちになって碧さん。あなたのお母さんだって子沢山の家系だと言ってらしたわ。変じゃない?毎日毎日やることやって、健康に暮らしていれば出来るものよ。変なことしない方がいいのよ。今の若い人はすぐ薬に頼るから。ビタミンだの、何?サプリメント?訳のわかんないものを平然と飲んでるでしょう。もう信じられない。普通の食生活の中でちゃんと摂るということをしない。もう本当に不自然。お天道様はちゃんと見てるのよ。不正は駄目よ」

不正?
え?不正だったの?
私のしてること・・不正だったの?
碧は混乱し始めた。
不正。普通じゃない。異常。ふーん。
あれ?ちょっと待って。どうして私は普通じやないとさっきから言われているのだろう?異常?あれ、いつから私異常になっちゃったんだろう?私はずーっと普通のつもりだった。
いつから自分は普通じゃなくなっちゃったんだろう。
碧の思考は渦の中を回り始めた。

碧は昭子の言葉を思い出した。
悟とめぐみが結婚すると言った時昭子は反対した。めぐみのことを会うまでもなく普通じゃない女と罵った。
そして普通の女性というのは「碧さんのような人よ」と多少政治的な意図があったにせよ昭子は言った。そんな自分だったのにいつの間にどうして普通じゃなくなったのだろう。

あれ?
自分は普通に平凡に生きて来たつもりだったのに。
あれ?
あの女子高生にもそう主張したのに。平凡であること普通であることを大事にしたい、目新しいもの珍奇なものばかりに刺激を期待するのは甘ちゃんだと言ったのに。事実平凡であること普通であることを大事に思って生きて来たのに。
あれ?

普通の出来事に彩られた自分の人生。普通であることの哀しみと安心感、私は普通であることに誘われ普通の海を泳いで来た。それが今どうして普通じゃなくなったのだろう。
自分もまた人のことを普通じやないと批判したことがある。普通であるということは自分の大きなより所である。
でも今、自分は普通じゃない異常だと言われている。どうしてだろう?妊娠しないから?でも妊娠しない状態は普通で病気じゃないんじゃ。保険だってきかないし。あれ?でもやっぱり病気?異常?
あれ?あれ?どうして?

この節子って人が変なのかな?普通じゃないのかな?子供は授かりもの。うん、分かる。自然に健康な生活をおくる、そうした積み重ねの果てに妊娠がある。うん、分かる。普通だよこの人。あれ?じゃあやっぱり私が変?
碧の思考はメビウスの輪のような領域に入り始めた。

節子は言った。
「碧さん。お金なんか使わなくても、こつこつ真面目にひたむきに生きていれば必ず結果は出るんです。間違ったことをいくら積み重ねても砂上の楼閣です。そう思いませんか?亡くなった兄さんだってそんなこと許さないと思いますよ」
碧はまるでロープ際に追い詰められたボクサーのような状態になった。反論しなきゃ、ジャブを出さなきゃと思いながら、どんどん自分の思考の中に埋没して行った。

砂上の楼閣?
間違ったことを積み重ねる?
間違ってた?
あ、そうか。私間違ってたのか。
自分は間違ってたんだ。そう思えば全てのことが納得いく。自分を正しいと思うからおかしなことばかりだったんだ。
そうだよ。
どうして愛されないんだろうと思ってたら、そうだよ、間違ってたらからだよ、そうだよ、子供だって産めないし、そんな人が結婚して愛してなんて言ったって叶うわけないじゃないか、ああそうだったんだ、私間違えてたんだ。
あは、浮気だってしたくなるよね。こんな女と一緒じゃね。

あれ、高見沢さんの娘さんって誰?知らない。
そうだよ知らないことだらけ。
あの女子高生とシゲちゃんがエッチしてることだって知らなかったし、知らないことだらけ。
生まれてきてごめんなさいか。そうか、それ私のことだったんだ。私間違って生まれてきたんだ。



崩壊(5)



ごめんね。ごめんね。
間違って生まれたんだ私。なのに自分のこと普通だなんて自惚れて、人のこと普通じゃないなんて批判したりして。

あれ。
でも変だな。
私だけじゃなく他の人も間違いなく自分のこと普通だって思ってるよ。どう考えても「変」って人も自分のこと普通って思っている。
普通って何?
普通って一杯あるの?
普通って言葉は皆が使うけど、でもひょっとして普通と呼ばれるような共通のものって本当にあるの?
まるで水戸黄門の印籠のように普通という言葉を持ち出すと皆「ははー」とひれ伏しているだけじゃないの?
犯罪者とか非行をした少年とかが逮捕されると近所の人は皆「普通の人」でしたと言う。普通って何?そんなに明確なもの?

よく小説家が、名も無き大衆、普通の人々、平凡な人々を描きたいんだなんて言う。私それ聞いて「そうだそうだ」って思ってた。でもそれって昔と違ってそんなに確実なもの?そんなに見事な印籠のようなもの?
それに普通の人の気持ちって普通の人にしか分からない筈なのに、普通の人々の気持ちが描ける作家は普通じゃないよね。平凡じゃなくて非凡な才能の持ち主だよね。じゃあ、じゃあ平凡な人の胸のうちは誰が描けるの?
ただ自分は平凡だという自意識の人間が勝手に平凡な気持ちと思っていることを描いているだけじゃないの?
みんな自分のことは普通で平凡だと思っているという錯覚で生きている証拠に過ぎないんじゃないの?

百人百様の普通があるなら、普通という共通の規範はないに等しいのでは?
あ、でもちょっと待って。私はその中にもともと入ってないんだ。私は普通じゃないんだ。そこを間違えちゃいけない。
いや普通ってものが怪しいんだから、普通じゃないという考え方もおかしい。
あれ?あれ?

碧の耳に突然節子の声が飛び込んで来た。
「碧さん。お話聞いてます?」
碧はかろうじて「はい」と返事した。何かボーッとしていたのだろうか。目の前に節子がいた。そうだ反論だ。
碧はかろうじて「あの、叔母様の言われることは分かります。でも、私は私なりに」と言葉を続けようとした。しかしその碧の視界が突然歪んだ。台所の風景が魚眼レンズを被せたかのように湾曲し、自分の体がふわあっと倒れていく感覚が発生した。
碧は何かに手をついた。少し倒れる感覚が止まった。

碧の思考に「日本昔ばなし」が出て来た。
「お代官さまあー、勘弁してくだせえー。おらあ、もうだめだよー。勘弁してくだせえー。おらが悪かっただよおー」
何かがガランと落ちた。碧が手をついた所は確かな部分ではなかったらしい。再びふわあっと倒れて行く感覚が発生した。自分は頭を床にぶつけると思った。しかし落ちていく先に床はなかった。ただ何も無い真っ暗な闇があった。碧は闇の中に倒れこんで行った。

その刹那に幾枚かの皿が床に落ちて割れる音が聞こえた。そして人の揉みあう音。悲鳴。
誰かが叫んでいた。
「叔母さんに俺たちの何が分かるんだあ!」
碧は倒れながら繁雄の声だと思った。繁雄の声は泣いているように聞こえた。
「お前に碧の何が分かるんだあ」
悲惨なほどに泣き叫ぶ声がはっきり聞こえた。
碧は思った。
「シゲちゃん。泣いちゃ駄目だよ。男の子は泣いちゃ駄目なんだよ」
碧は闇の中に真っ逆様に墜落して行った。そしてその闇の先には宇宙があった。モノリスの漂う漆黒の宇宙が。
碧の意識はそこで途絶えた。




崩壊(6)


碧は夢を見ていた。
とても幸福な気持ちで布団に寝ている夢だった。その布団は空飛ぶ絨毯のように宇宙に浮かんでおり、全ての方向に星が見えた。魂のように輝く星々と死のような静寂。
その世界に「体がそげんなっとらんとよ」と声が聞こえた。
碧は祖母の声に思えて「あれ、お婆ちゃん?」と目を開けようとしたが開かなかった。
「疲れたねえ。ひとりで疲れたねえ」と声は言った。
「お婆ちゃん」碧の目は開かなかった。
「疲れたねえ。疲れたねえ」と声は言った。
碧は目を開けるのを諦めて尋ねた。
「お婆ちゃん。体がそげんなっとらんってどういうこと?私の体どうなってるの? 私駄目なの?」
「眠りんしゃい。起きたらいかんよ。眠りんしゃい」
「お婆ちゃん」
何回か問いかけたがその後声はなかった。
死のように沈黙した闇と、その闇とは対照的に生き生きと煌めく星々。その中で碧は再び眠りこんだ。
 

サルベージ情報⑯  小さな願い⑰

 投稿者:あいどん(管理人)  投稿日:2017年11月15日(水)16時29分13秒
  崩壊(1)


昼休みの終わり、今にも午後の仕事が始まろうかという時に繁雄の携帯にメールが入った。ひかるからだった。
「今日『クジラのしっぽ』で待っています。会社の帰りに来て下さい。待っています。来るまで待っています」とあった。
繁雄は何を言うという気持ちになった。舐められたもんだ。これ以上何をしようと言うのか。暫く腹を立てて仕事をしていた。
しかし三時の休憩時には不安が広がり始めた。放っておくとまたとんでもない事をやりはしないかと思った。ひかるの謎。「あんた達をからかっただけよ」とひかるは言ったが、どうしても納得いかない部分があった。いくつか確認したいことがあった。

だが一方で会ったりすればまたたぶらかされるのではという気持ちもあった。情けないことだが権謀術数にかけては向こうが上だった。思いがけぬ策略にはまる可能性は十分にあった。闘争心のない自分。闘争する力を養っていない自分を哀しく思った。
無視して帰宅するつもりでいたが、何故いつも改札口で待ち伏せるのに今回はクジラのしっぽなのだろうと思ってしまった。来るまで待っていますなどという妙に腰のひけた態度が気になった。
行くだけ行ってみようかなどと思い始め、どうせからかいなのだろうから覘くだけで帰ればいいなどと帰宅時には決心してしまっていた。

駅を出ると雨が降りそうな気配だったが急ぎ足で行ってみた。
行って驚いた。本当にひかるはいた。ポツンと独りで海を見ていた。ひかるの視線の彼方、海の水平線の上には水墨画のような無彩色の空があり海上は雨のようだった。
繁雄は声をかけたい気持ちが一瞬したがそっと帰った。

アパートに帰ると碧が「遅かったのね」と言った。言葉に棘があった。そういうつもりはないのだろうが、一度「裏で何をやっているか分からない」という疑いを持たれると際限なく棘のある空気が広がった。それでも少しずつ回復傾向にあり、いずれ傷は癒えると予感させるものが出始めていた。

碧は「シゲちゃん」と呼びかけた。「何?」と返事すると「ラーメン屋さんとかお蕎麦屋さんとかどうして四人席なんだろうね」と碧は言った。
「さあ?」
「テレビでも車のCMとかシチューのCMとか、ファミリーが出てくると皆四人だよね。お父さんお母さんがいて子供がいて、何を見ても何処に行っても子供がいることを当たり前として出来上がっているよね」
「そう言えばそうだね」
「二人だけの家族って変なのかな」
「そんなことはないよ」
「でも世の中はヘンって言っているような気がするよ」
「そんな事はないよ」

繁雄は何を言っているのだろうと思った。
昨日も碧は「私は悪い人間じゃないよ」と言い始め「一生懸命真面目に頑張って来たのにどうして子供が出来る人と出来ない人がいるんだろう。悪いことなんにもしていなのに」と続けた。
生理中で鬱に入っているせいなのだろうか?「悪くない」とわざわざ言う人は少なからず罪悪感があるということである。碧はその日電車の中で妊婦に会ったという。そして自分の前に立ったという。碧は何故か席を譲らなかった。生理中で疲れていたからではない。何故この女には子供が出来て私には出来ないのだろうと思うと、とてもじゃないが席を譲る気持ちになれなかったという。

自分は人に後ろ指さされるようなことは何もして来なかったし、平凡に普通に健気に生きて来た。なのにどうしてこの女には出来て私には出来ないのだろうと思うとやりきれなくなった。席を譲るどころか足でも引っ掛けたいという気持ちすら起きたという。
そんな話を昨日はしていた。
繁雄は気分転換させなきゃなと思った。タイミングはまだ再開していないが、意欲を持っていとなみが出来るような気持ちにならなきゃなと思った。そしてこの閉塞感を打破するためには、もうこの問題を二人だけで抱えていてはいけないと思った。

碧が会社で不妊治療を秘密にしていて思わぬ誤解を生じさせたが、打ち明けたら意外なほどみんなに助けられ楽になったように、そろそろ昭子や親戚たちには話してもいいんじゃないかと繁雄は思った。そうすれば節子叔母のように無用な誤解をされなくても済むし、もっとフランクに明るく色んな協力を得られる可能性があるのではないかと思った。

その事を少し碧に話した。すると碧は「そうだね、そうかも知れないね」と吃驚するほどあっさりと同意した。「本格的な話はそのうち時機を見てということで、ほんの少しずつ俺の方から母さんに情報流しとくよ」と繁雄は言った。
碧は頷いた。
しかしそれが決定的な「崩壊」の序章になろうとは、まだ気づかない二人だった。

そのような時に武義が死んだ。


崩壊(2)


葬儀というものは悲しみにくれる時間はなく、とにかく次々と決定せねばならない事に追われる。喪主の決定、世話役の決定、葬儀の規模の決定、予算、通知の範囲、日取り、式場、やることが目白押しだった。
やっとしみじみ悲しみに浸ることが出来たのは何もかもが式場で終わって、近しい身内だけが戻って来た実家でだった。といっても男衆はまだ呑んでいて宴会状態なので、台所では節子の采配のもとに女たちは忙しかった。

こういう集まりごとのあった時の常であるが、宴会という男の親族会議の陰では、台所で女の裏親族会議とも言うべき情報交換が始まっていた。料理の準備をしながら洗い物をしながら情報が乱れ飛んだ。
誰さんは実はもう離婚同然だけど籍だけは汚さない決意らしいとか、誰々ちゃんは中学生なのにもう同棲しちゃってるとか、まことしやかに得体の知れない情報が乱れ飛んだ。

その話題のひとつに碧の事が上がった。勿論そのとき碧は宴会の席で男衆の相手をしていた。
節子はたまたまビールの追加を取りに来た昭子に話しかけた。

「ねえ、碧さん不妊治療してるんですって?」
「誰に聞いたの?」と昭子は驚いた。
「文夫さんよ。あいつらも頑張ってるんだから、あんまりくどくど言うなよなんて言っちゃって。なあに?碧さん何処が悪いの?」
「さあ、まだ調べてる最中だって言うから」
「いつからなの?いつからそんな事してるの?」
「うーん、まだ詳しいことは聞いてないんだけど」
「どうして?どうして聞いてないの?そんな大事なこと義姉さんに一番先に話すのがすじでしょう、そうでしょう?じゃあ何、兄さんだって何も知らずに騙されたままで死んじゃったって事?そんなひどい事ってある?」節子は涙ぐんだ。

昭子は「別に騙したわけじゃないけど、まあ、いろいろあるわよ」と冷蔵庫からビールを二本抜いた。
節子は「いろいろあるじゃないわよ。しっかりしてよ義姉さん。この会社だってどうなるの?本当にたたんじゃうの?なんでシゲちゃんが継がないの?ひどいじゃない、責任ってものがあるんじゃないの?」と言った。
「そうは言ってもね」
「冗談じゃないわよ。大体あの大人しいシゲちゃんがこんな事するなんて信じられない。人が変わったみたい。やっぱりあれでしょう?あの嫁のさしがねでしょ?自分勝手で周りのこと何も考えないあの女のさしがねでしょ?」
「さしがねなんてそんな。碧さんはそんな人じゃないわ」昭子は少し呆れ気味に言った。

節子は「しっかりしてよ義姉さん。だから私この結婚には反対だったのよ。シゲちゃんにはやっぱり高見沢さんの娘さんが良かったのよ。ああ、本当に口惜しいわ。あの縁談強引に進めるべきだった。本当に後悔先に立たずね。そうすればハズレくじ引かずに済んだのよ。高見沢さんの娘さん今では三人も子供産んでらっしゃるのよ。シゲちゃんだって仲良かったし本当に最高のカップルだったのよ。それをあの女が横から・・本当に口惜しいわ」と正に紅涙を絞るという風情で涙を流した。

昭子は苦笑して言った。
「もう、そんなに言わないでよ。高校生の時からつきあってたんだから」
「それはそれよ。大学時代は関係なかったわけでしょ。学校違うし。それを突然焼けぼっくいに火がついたみたいになっちゃって、いつのまにかいいように丸め込まれて騙されて。もう本当にシゲちゃん大人しいからねえ、口惜しい」
「騙されたわけじゃないの。繁雄の方がおねつだったの」
「騙されてるじゃないの。不妊治療しているんでしょ?産めないんでしょ?普通じゃないんでしょ?昔だったら実家に叩き返されても文句言えないところよ。夫の家の危機にも手を貸さず、おまけに跡継ぎも産めないじゃ酷すぎるじゃないの。詐欺じゃないの」

昭子はいい加減切り上げないとビールが温まりそうだったので「もういいわよ。あんまり言わないで」と行こうとした。
そして台所の出入り口を見てハッとした。
碧がお盆に汚れた皿をのせて立っていた。そしてその後には同じくお盆を持った繁雄が。

聞かれたかとも思ったがとぼけるしか道はなく「あら繁雄も一緒に持って来たの。なによ、喪主はちゃんと座ってなきゃ」とビールを二本渡し繁雄のお盆を引き取った。繁雄は戻らざるを得なくなった。
そして「碧さん、汚れ物ここに置くだけでいいわ。すぐ皆さんの相手してあげて」と流しにお盆を置いてさっさと座敷へ行ってしまった。
碧は「はい」と返事をして、お盆を置いて行こうとしたが「碧さん」と節子が声をかけた。



崩壊(3) 

節子は「シゲちゃんは本当に心が優しいから、台所仕事も手伝ってくれるけど、こういう時は男の立場ってものもあるんだから、碧さんあまり甘えないでね」と言った。
碧は素直に「はい」と返事をして行こうとしたが節子は「何か薬のんでいらっしゃるの?」と聞いた。
「薬?」と碧がびっくりすると節子は「ご病気なんですって?」と聞いた。
「え、病気?」
「あら、病院行ってらっしゃるんでしょ?」
「ええ、でもそれは・・・」
「いえ、お大事になさっていただきたいんですけど、でも何か今流行の治療をなさってらっしゃるとか聞いたんだけど」
「流行の治療?」
「あのテレビなんかでもよく言っている不妊治療とかいう、そういうものをしてるとか・・」
「あ、いえ、そ、そうですね。不妊治療してます。けど」
「あの、別に何をなさろうとかまわないんですけど、私以前からこういう世の中の風潮に一言申し上げたいことがありまして、まあ、お若い方には年寄りの戯言のように聞こえると思いますけど、ちょっと聞いていただけます?」
碧は早く座敷に戻りたかったが「ええ」と返事をせざるを得なかった。

節子はまず自分は子供を産んだ普通の女だという話から始めた。
何もしなかったし、そんな変な薬だとか注射だとか試験管だとか妙なものは使わずに産んだと言った。もちろん時代が違うのかも知れないけど、こればっかりは神代の昔からそんなに変わるものだとは思えないと言い、子供はあくまで授かりものだと強調した。

碧は「授かりものというのは分かります」と返事した。
「でしょう?そう思うでしょ?」
「はい」
「だったら、お金で子供のことを解決しようなんて普通じゃないわよ」
「お金でって」と碧は驚いた。
「どうしてそんなお金使ってまで子供を作ろうなんて思うの?異常よ」と節子は言った。
「いえ、それは」といい始めた途端節子が言葉を被せた。
「不健康な生活しているからじゃありませんか?変な理屈じゃないのよ。私なんか何もしなくてちゃんと産んだんだから。そんな変な薬のまなくても産んだんだから」

碧は何処から話しを始めようかと思った。不健康と言うのは時代的には言えた。しかし節子は別のニュアンスで言っていた。そうではない。
しかしそんな碧の思惑を無視して節子は続けた。
「常識を持っていただきたいのよ碧さん。私決して偏屈な気持ちではなく本当の素直な気持ちとして申し上げてるんです。やることやらないで、ちゃんとした努力しないでそれはないんじゃありません?」
「いえ、ですからそれは」
何から言えばいいのか。碧はこみ上げて来る思考の中で言葉を探した。その隙に節子は更に言った。
「大体妙な薬で体をいじめてるせいじゃないのかしら?風邪薬飲んでると胃を荒らすから胃腸薬飲んでるようなそんな部分ないかしら?薬に頼りすぎて更に薬を必要として、どんどん普通じゃなくなっているような、そういうところあるんじゃありません?考えなきゃいけないんじゃありません?」

薬で体をいじめている。それもまたあるのかも知れない。碧は反論しなきゃと思いながら闇の中に入り始めた。何故自分は排卵誘発剤を使っているのか。何故排卵を誘発せねばならないのか。女の一生で排卵出来る数は限られている。その有限な分量の中で薬を使って排卵をさせるのであるが狙い以上に複数排卵することもある。長期に及ぶ治療をしている女性には確実にその無理が来ているという話も聞く。確かに体をいじめている面もあるのだ。

五つ子が話題になった頃から多胎妊娠ということが問題になり始めた。排卵誘発剤により予想以上の胎児が出現し全部の胎児が育たない可能性が発生、母体の危機も通常よりはるかに高くなった。
また体外授精でも複数の受精卵を誕生させながら、女性の体内に着床させる卵子とさせない卵子を選ぶという人為操作は善なのか。命は何処から人間として認知されるのか。選ばれなかった受精卵、それは人間ではないのか。
そして通常の妊娠では精子が膣内であれだけの試練を経て卵子に到達するのに、それを一切なしに、つまり女性の体という「ふるい」にかけないで受精させるというのは問題がないのか。精子と卵子の核が融合することをもって妊娠の第一歩と無邪気に考えてよいものなのか。

碧は反論する前に数々の思いが噴出し始めた。
 

サルベージ情報⑯  小さな願い⑯

 投稿者:あいどん(管理人)  投稿日:2017年11月15日(水)16時26分20秒
  お食くいぞめ(1)

一ヶ月位ということだったが何だかんだと引き延ばされ、やっと碧が円満退社という運びになった時には二ヶ月以上の月日が流れていた。
まるちゃんや植村課長を始めとする人々が暖かい送別会をしてくれた。最後に課長とまるちゃんが「こんにちは赤ちゃん」を歌ってくれた。
碧は感涙ではなく、余りに皮肉な成り行きに泣き叫びたい衝動に襲われたが、なんとか自分を抑え込み、不妊治療を第一目標とする生活に踏み出した。

しかしもう既にタイミングを二回拒否していた。如何に繁雄が詫びようとタイミングをする気になれなかった。金魚ではないが男というものが分からなくなっていた。何を基準に男は生きているのか、まったく見当がつかなくなっていた。
あの、馴れ馴れしく「シゲちゃん」と呼んだ声が今も頭に残っていて、一人で部屋にいる時は意味のない声をあげた。周りの家具を全部なぎ倒したくなった。

初めて訪れた夫婦の危機であった。
しかし生活というものは二人だけの問題だけに熱心になっていられるほど純粋ではなく、武義のこと、昭子の哀しみ、跡継ぎ問題、それぞれの会社の問題に忙殺された。
「あなたにとって私ってなんなの?」などという言葉が安っぽい小説やテレビドラマに溢れているが、現実はそんなことにこだわっていられるほど悠長ではなく、次から次へと課題が襲って来て、二人の世界などというものは本当にオマケのようなものだった。日曜夫婦という言葉を提唱したいくらいだった。つまり日曜画家のように余暇が出来たら夫婦のことを考えましょうかという状態だったのである。しかしある意味ではそれがよかったのだと二人が思うのは更に時間が経ってからの事である。

二人の前には死に直面した夫婦がいた。
夫の病名を隠し、来るべき死を隠蔽し続ける妻。そしてその妻の腹芸を見抜いているのかいないのか、見抜いていても腹芸に合わせていくしか道がないと思っているのか、まったく了解困難な、お互いに腹芸の果てに疲れているかのような夫婦がいた。

ある夜。
繁雄と碧の前で昭子は泣いた。病院のロビーの片隅で泣いた。
その日は内緒で文夫が缶ビールを武義に差し入れた日だった。どうしてもビールが呑みたいと言う武義の願いを文夫は叶えてやったのだが、武義は「味がしない」と落胆した。
病院のロビーで「あれほど好きだった酒の味がしないのか」と涙ぐむ文夫の姿に、昭子は号泣したのである。

昭子が「私と酒のどっちをとるの」と問い詰めた時に「酒に決まってるじゃないか」と何時もの如く強がった武義。そのくせ昭子にプロポーズした時には「惚れました。すみません貧乏してるけど頑張ります。一緒に働いて下さい」と土下座したという武義。
「これでも独身時代は結構もてて蝶よ花よ太陽よと言われて口説かれてたのに『一緒に働いて下さい』はないだろう、おかげで変なウィークポイント衝かれてコロッと参っちゃって、本当に目一杯働かされた」と昭子は泣いた。

長年連れ添った夫婦の別離が目の前に来ていた。
「女房殺したいなんてことは珍しいことじゃない」と笑った武義と、惚れてしまった武義と、どちらがより武義らしいのか碧には分からなかった。
幾多の修羅場と幾多の平凡な日々を埋め尽くして来たであろうこの夫婦にも、今の自分たちのような危機があったのだろうか。それは今となっては笑って済ませられるようなことになっているのだろうか。碧は自分の気持ちの行く末を決めかねていた。

「俺みたいな奴とねんごろになってくれてよう。嬉しかったよ。子供も二人も産んでくれてよ。へへ」と一回だけ照れくさそうに言って武義はやがて旅立って行くのだが、その前にもうひとつエピソードがある。

「お食いぞめ」である。
悟とめぐみの子が生まれて百日目を向かえたのである。
「この子が一生食べるものに困らないように」という願いをこめた儀式「お食いぞめ」。鯛の尾頭付きと赤飯とお吸い物が用意された。年長者が赤ん坊に食べさせる真似をさせるということで武義がその任に当たった。
そう、その時には武義は自宅療養に入っていたのである。
医療機関の打つべき手は尽きていた。もちろん色々揉めたが最終的には武義の「工場の機械の匂いが嗅ぎてえなあ」という一言が効いた。武義は末期療養を自宅で行うことになった。




お食くいぞめ(2)

モニュメントらしく悟がビデオを回した。悟は赤ん坊が生まれて以来ビデオを撮りまくりらしく、赤ん坊を抱いためぐみに子供のポーズまで細々注文する惚れこみぶりである。
武義は「この子だけを写すんだぞ、俺を写すなよ。幽霊ビデオになっちまう」と言った。武義はここまで痩せるかと思うほど痩せていた。一本の髪の毛もなく、まるで西独映画「ノスフェラトゥ」の主人公の如きモンスターだった。
箸よりも細いかと思わせる指で武義は御飯を赤ん坊の口に持って行った。赤ん坊は何が目の前にあるのかも分からず、玩具を見たように武義に笑いかけた。

つやつやとした赤飯が、美味しそうな鯛の身が赤ん坊の口元を通過した。赤ん坊が本当に食べようとしたので武義は慌てた。
「こいつは食いっぱぐれなしだ」と武義は笑った。みんなも笑った。
碧は笑いつつも涙をこらえ切れなかった。マシュマロのように柔らかく、ふくふくと「いのち」を発散し続ける赤ん坊とモンスターのような武義。
それは生と死の暖かく残酷な競演に見えた。
突然武義は箸を手から落とし「横になりたい」と言った。そこまでが武義の体力の限界だった。

碧は思っていた。
武義は何処から来て何処へ行こうとしているのか。この赤ん坊は何故ここで息をしているのか。命は何故おんなの体を通過してこの世に現れるのか。
自分は何をこだわっているのか。もうすぐタイミングの日が来る。命を育むタイミングが。自分というおんなのプライドを今後も貫くべきなのか。
あの小娘はこうも言った。
「妊娠なんて単なる化学反応みたいなものでしょう。リトマス試験紙を酸性の液体に入れるかアルカリ性の液体に入れるかで色が変わるようなものでしょう?それ以上のことを過剰に思い入れするのは、ただのナルシズムじゃないんですか?」

ナルシズムだろうか?
精子と卵子が出会い融合するのは化学反応だろうか?
宇宙がビッグバンで膨張を始め、星が生まれ、太陽が生まれ、気の遠くなるような確率の中で生命が生まれ、それが人間という生物にまでたどり着いた。私たちは類稀な偶然の連鎖の果てに存在しているだけのものなのだろうか?

「2001年宇宙の旅」という映画では折々に「超越者」の存在を感じながら、とうとう「超越者」には会えない。何処までも何処までも続く漆黒の宇宙にモノリスという黒い板が漂っているだけである。
難解と言われる映画で碧にも確かなメッセージは分からなかったが、あの木星近くの宇宙空間で気の遠くなるような歳月を漂い続けるモノリスを見た時、人間のようだと思った。
なんて孤独なのだろうと。
人間はいつか誰かと出会えるのだろうか。
自分は繁雄と本当に出会っているのだろうか。ナルシズムにでも陥らなければとてもつらい日々が確かにある。

突然「親父!」という繁雄の声が武義の部屋から聞こえて碧は我に返った。
武義の様態が急変したのかと碧はダイニングから走った。
しかし「ははは、一寸ずっこけただけだよ。今にも死にそうな声だすなよ」と武義は繁雄と悟に介助されながら布団に横になるところだった。
「やっぱりビールの味がしねえよ」と先ほど祝いの膳でコップ半分も呑めなかったビールのことを残念がった。悟が「大丈夫だよ。もう少し回復すれば美味くなるさ」と言った。
「いやあ、やっぱり働いてねえからだよ。働かねえと酒は美味くねえ。明日工場に出るかな」と武義が言うと、昭子が「やめてよ」とヒステリックな声を上げた。

武義は笑って「おっほっほっ。働かねえと追い出されそうでな」と言った。「ホントにやめてよ」と昭子は冗談で捉えきれないでいた。
武義は横になると楽になったのか軽口になった。
「働かねえとなあ。働く以外何もなかったんだからなあ。若い頃はこれでもスゲエことやってやろうなんて思ってたんだぞ。皆が吃驚するような事をやってやろうなんてな、はは」
昭子が「もう、暫く眠って。疲れるわよ」と釘を刺した。しかし武義は止まらなかった。

「せっかく生まれて来たんだからよ。世界征服とまではいかねえけど、はは、なんかやろうってな。そしたら、スゲエことどころか、バタバタ働いただけでこの歳だ、はは。子供二人育てただけでおしまいだよ」
昭子が「さあ、皆もう行きましょう。お父さん眠らせなきゃ」と皆を促した。一同は腰を上げた。「暫く眠って」と出しなに昭子が声をかけた。やはり疲れていたのだろう。武義はただ頷いて目を閉じた。
だが、皆が出ようとした刹那、悟が武義の枕元に突然跪いた。
「親父凄いよ!子供育てただけなんて言うなよ!凄いことだよ子供二人も育てたなんて。凄いよ!凄いよ!」と言い「ごめんなこんな息子で!」と武義の手を握り悟は泣いた。
父親になって悟は悟なりに自覚したことがあるのだろう。悟は「ごめんよごめんよ」と何回も言って泣いた。




もう一度にらめっこ(1)


泊っていけばいいのにという引きとめを断って帰路についた時には十時を過ぎていた。最後の乗り換えが終わった時には終電近くなっており、ラッシュ時並みの混雑で繁雄は座れず碧だけを座らせた。

つり革に掴まり繁雄は碧を見下ろした。日常から離れ、久しぶりに盛装をした碧の容姿をしみじみと眺めて綺麗だなと思った。バストやウェストやヒップを露骨に見た。何故おんなには胸のふくらみがあるのだろうと思った。乳房のカーブがありウエストのくびれがありヒップの丸みがあった。
スカートから綺麗な二本の脚が流れ出ていた。繁雄は二本の脚のつけねを思い起こした。自分だけに許してくれる部分を、感触を思い起こした。

どうしておんなにはこの部分があるのだろう。男の気持ちを捉えて離さぬ桃源郷。全ての女性にこの部分があるという事実。男は日夜おんなのつけねを求め続けてやまない。
繁雄はひかるのつけねも思い起こした。碧と特別違っている訳ではない。ただ全てのつけねは尊いと思う自分がいた。裏切り者と言われようと女性全てのつけねに惹かれ続ける自分がいた。
だからとりあえず謝ってはいるが、女性が何故あのように「私だけ」と言い続けるのかが深いところで分からずにいた。独占欲は男にも当然あり、その範囲でなら理解出来るが女性のそれはもっと根源的叫びのように思えた。

何時だったかあの妊娠に関するドキュメントのビデオを見た時、何億もの精子が卵子に向かって泳いで行く様はまったく理不尽さを感じさせるものだった。
何故女性の体は精子にあのような試練を与えるのか。
奇形の精子や逆境を乗り越えるスピードや体力を選別するのは分かるが、右と左のどちらの卵管を選ぶかによって「はずれ」になってしまうというような、まるで「大陸横断ウルトラクイズ」の○×試験のようなものが何故必要なのか?運のないやつは駄目という過酷さ。

女性の体は「人類が生き残る為の試験者」という使命を帯びているのだろうか。女性は基本的にかぐや姫のように無理難題を克服させオンリーワンを求める生物なのか。卵子の徹底的選別の仕方は女性の現実の性意識にも当然決定的影響を与えており、それが「私だけを」という情熱の源ではないのか。「私の卵子にだけ徹底的に情熱を注げ」それが女性の根本的叫びなのか。

逆に男は何億もの精子を放出しながらそれが当たらないという確率の悪さの前に、あらゆる女性の卵子に向かって放出する以外に確率アップの道はなく、もしそのような生物としての摂理が深いところで動いているとするなら、男性は女性の「私だけを」という期待に応えられないということになってしまう。

ひかるはあの時碧に言った。
「生まれてしまった私たちにとって肉体は娯楽でしょう」と。
肉体は苦痛でもあるけど快楽でもある。そのことを楽しむ以外にないじゃないかと。碧は情けない考え方ねと快楽主義を蔑んだが、言っているひかるそのものにしてもやはり「私だけを」という匂いを繁雄に振りまいていたのだ。

ひかるもまた不可解な部分が多すぎた。
結局何故繁雄を誘惑したのかと言えば、いいように小馬鹿にされた腹いせという事になる。
要するにひかるは繁雄夫婦を破壊すれば良かったという結論になる。しかしそれならわざわざ寝なくともそれらしい誘惑をしておいて脅しまくるという手もあったろう。
事実セックスもさせないで幾ら自分に金をつぎ込めるかと妻帯者を手玉にとった話も中年男に聞いていた。

ひかるもまた自分で言っていることを行動で証明出来ていないように思えた。
ひかるが悪意の塊で動いていたとするなら腑に落ちないことが多すぎるのである。
あの海辺で「私は誰としてもひとりぼっちだよ」と泣いた涙は演技に思えなかった。会話の中で折々に見せた碧に対する嫉妬心も偽物とは思えなかった。
中年男の言葉が信頼のおけるものなら何故ひかるは自分の悪口を言わなかったのか。馬鹿な夫婦を策略に陥れ繁雄を騙す楽しさを逐一語っていておかしくはない。

この事だけではないが、ひかるの行動の根底には、やはり何か家庭や生い立ちの問題が潜んでいるのではないか。考え過ぎかもしれないがひかるの背後には恐るべき陰が感じられのだった。

「あっち空いたよ」と碧に言われて繁雄は我に返った。向かい側の席が空いたので座れと言っているのだ。その時には立っている乗客はまばらでその席は遠慮の塊のように誰も座らなかった。繁雄は「いいよ」と言って碧の前に立ち続けた。ずっと碧の体を見ていたかった。
腹の中に憎悪はあっても「思いやり」は存在した。まるで毎朝ごはんを作るように「思いやり」が作られた。習慣と言ってしまえばそれまでだが、心の憎悪と日常行動は一致しない。碧の中の憎悪はまだ壮大に燃えているのだろうか。許してくれる時は来るのだろうか。



もう一度にらめっこ(2)


あの時ひかるは「ごめんなさいね。もう退屈しのぎは終わり。ちょっとあなた達をからかっただけよ。旦那さん大事にしてね」とうそぶいて、今にも気絶しそうな碧の前から姿を消した。
そして碧は荒れ狂った。
何日も冷戦が続きある程度言葉が溜まると罵りが襲って来た。繁雄はひたすら「ハリケーン」が過ぎるのを待つしかなかった。
誠実に詫びたし、ひかるの言葉により今後も不倫が続く可能性がないことは碧にも十分理解出来ていた筈である。だから繁雄としてはあやまちをあやまちとして碧が許してくれるのを待つしかなかった。

繁雄は今の自分に必要なのは碧の心の回復のために精一杯のことをしてやる事だと思っていた。碧は愛されたいのだ。誰よりも愛されたいのだ。今度碧に「愛してる?」と聞かれたら、いつもは照れくさくて言えなかったけどちゃんと「愛してる」と言おうと決心していた。だったら聞かれる前に先に言えよということになるが、今言ったら白々しくなることは目に見えていた。
もう一度ゆっくりと繁雄は座席の碧を見おろした。目を閉じた碧は本当に居眠りする瞬間があったのか首をかくんとさせたりした。

電車が駅に着いた時には日付が変わっていた。
改札を出る前に繁雄はトイレに行きたくなった。碧は行きたくないと言う。改札を出て待っているからということで繁雄は急いで用をたそうとトイレに入ったが、中は酔客のラッシュで並んでいた。

手を洗う間ももどかしく急ぎ足で改札を出ると、意外なことに碧が泣きそうな顔で抱きついて来た。吃驚した様子で少女のようだった。
「どうしたの?」と聞くと碧が目だけで後方を見た。
その後方、つまり繁雄にとっては前方では酔っ払っているらしい男が「なーんだ。彼氏いたんだ」とへらへら笑った。どうやら碧はナンパされていたらしい。
「ジョーク、ジョーク、アイムソーリー」と酔っ払いはよろよろ立ち去った。

「絡まれてたの?」と繁雄は聞いた。碧は「学校何処?なんて聞くのよ。そんなに若くないわよ、見え透いてる」とむくれた。
繁雄は碧の肩を抱いた。とても怯えた姿がナイトのような気持ちを発生させ、あの初めてキスをした日「私を守ってね」と言われた高校生の時のことを思い出させた。勇敢に痴漢の手をひねり上げることが出来たのも自分という男がいたからだと言われたあの日。

「にらめっこしようか?」と繁雄はアパートに帰ってからきり出した。
「何言ってんのよ?」と碧は冷笑しつつ、少しきつめのスカートを勢いよく脱ぎ捨て楽なパジャマに着替えようとしていた。
それは親戚の集まり事があった時の常であるが、たくさん御馳走を食べていたのに食べたような気がしなくて妙にお腹が空いて仕方ない時であった。
「帰りついたらカップラーメン食べよう」と盛りあがっていたのに、思惑違いで一個しかなく「私は冷凍ごはん温めて食べるからいい」「いや俺がそっちにするよ」と譲り合いが始まってしまったのである。

「にらめっこして勝った方がカップラーメンを食べる。どうだい?」
「何言ってんのよ。いいわよ食べちゃって」と碧はとりあわない。
「やろうよおー」繁雄はわざと子供っぽく言った。
「にらめっこで私に勝てるわけないじゃない」
「そんな事はない。あの頃は負けてやってたんだぞ」
「まーた、またまた」
少し碧はのってきた。繁雄は仲直りのきっかけを掴みたいと思っていた。何回かしつこく駄々っ子を演じているうちにやる事になった。

にらめっこを始めて繁雄は最近改めて碧の顔を真正面から見ていなかった事に気づいた。少しやつれていたがチャーミングだった。この人と何回キスをし、何回いとなみを重ねたことだろう。繁雄は初めてにらめっこに勝った日のことを思い出した。あの潤んだ瞳、自分は愛されていると知った喜び。
しかし今ここに軌道がずれてしまった二人がいる。
結ばれること契りを交すことは男女の合意の下に行われるという考え方自体が元々間違っているのかも知れなかった。動機に根本的なずれがあり、ずれはあっても男と女は結ばれるのだと言う現実を受け入れるしかないのではないかと思う部分があった。

そんな事を考えていたら突然涙が溢れ始めた。
自分たちは何処にいるのか。自分たちは繋がっているのか。涙が溢れた。どうすればいいのか。涙が溢れた。
「なんで泣くのよお」という言葉で我に返った。
碧も泣いていた。「なんで泣くのよお」碧は叫んだ。「あんたに泣く権利なんかない」と泣いた。繁雄は「ごめんよ」と泣いた。
久しぶりのにらめっこは二人とも負けだった。
 

サルベージ情報⑯  小さな願い⑮

 投稿者:あいどん(管理人)  投稿日:2017年11月15日(水)16時22分36秒
  対決(1) 


碧は早速会社で課長とまるちゃんに事情を話した。
二人は辞めるまでしなくてもいいじゃないかと引き止めてくれたが、ひょっとすると繁雄の実家に同居する可能性もあるし、そうするとここまで通勤するのは難しくなるという説明も加えた。

武義の会社のことは今のところ文夫がやっているので問題はないが、やはり長男として母を支え同居するという課題は不可避と思われた。今すぐという緊急性はないが二年も三年も先送り出来る話ではなかった。
碧はうまく引き継ぎの都合がつけば一ヶ月程度で円満退社出来るのではないかという話を会社として帰路に着いた。

同じ頃繁雄もまた会社から帰ろうとしていたが、真っ直ぐ帰るかどうか迷っていた。
ひかるのことである。
ひかるのあの怒りは一方的に交際を切ったためにプライドを傷つけられたせいではなかろうかと思っていた。
あれだけ男には不自由しない青春をおくっているのに、自分のようなイモ野郎に袖にされたのである。プライドが傷ついてもおかしくなかった。やはりメールのような手段で別れを持ち出したのが誠実さに欠けていたのだ。

そのことをもう一度誤解のないように話す必要があった。ところが現時点では電話番号もアドレスも分からない。あの家を直接訪ねるしか方法がなく、うまい口実がないか悩んでいた。
しかし事態は一刻の猶予もない。多少不自然でも先日の頂き物のお礼を持って来たとか、強引なことを言って行くしかないなと電車が駅に着くまでに腹を決めた。

駅ビルで適当な手土産を買って行こうと思い、改札を出て「少し遅れる」と碧に電話した。
すると碧は「どうして?」と聞いて来た。声がただ事ではなかった。「今何処にいるの?」とまで聞いて来る。
「いや駅だけど、本屋に寄ってみようと思って」と苦し紛れの理由を言った。
すると「すぐ帰って来て」と碧は言った。声が涙声になっている。
一瞬武義に何かあったのかと思い「親父のことか?」と聞いた。すると碧は「ううん、そうじゃないの。とにかくすぐ戻って来て」と言った。

何があったと言うのか。
武義のことでなければ何なのか。
まさか。
恐ろしい予感がした。
ひかるが来ているのでは?
繁雄は殆ど走るようにして帰った。

決死の思いでアパートのドアを開けるとひかるは来ていなかった。
ホッとする繁雄に碧は一枚のメモを差し出し「どうして?どうして知ってるの?」と責めるように言った。
繁雄はメモを受け取り読んだ。女文字でこう書かれていた。

『近所まで来たので寄ってみました。お留守のようなのでまた来ます。不妊治療頑張って下さい。  ひかる』

繁雄は驚愕して「なんだいこれ?」と言った。碧が帰宅したらドアの郵便受けに入っていたという。
碧は「どうして?どうして私が不妊治療をしてるって知ってるの?どうしてそんな事喋ったの?」と叫んだ。
繁雄は「いや。そんな事喋ってないよ」と言った。
「シゲちゃんでなきゃ誰が喋るのよ。他に誰が知ってるって言うの?」
「いや、ホントに喋ってないよ」
「じゃあ、どうして知ってるの?どうして?」と碧は泣きだした。

繁雄にもまったく理解出来なかった。
本当に喋っていなかったのである。あのホテルでもそんな事は一言も言っていない。言葉巧みに聞き出された覚えもない。なのに何故知っているのか?
産婦人科に通っている姿を偶然目撃したとでも言うのか。
信じられない事だった。



対決(2)

翌日、会社の帰りに繁雄はひかるの家を訪ねた。午後七時近くで夕食時ではないかと思ったが、グズグズしている時間はなく、とにかく会って話をしなくてはいけないと思った。もし金銭を要求されたら金額にもよるが払ってもいい。そこまで決断していた。

家には母親が一人だった。夕食時ということはなく父親もひかるも遅いということだった。先日は明太子などという結構なものをいただき有難う御座いましたと、繁雄は菓子折りを手土産にした。
明太子のお裾分けはひかるの嘘という可能性もあったが、矛盾点が出てきた時は出てきた時でなんとか誤魔化すつもりでいた。すると本当のことであった。中年男とのトラブルはさすがに話していないようだったが、お世話になった人に持っていくという名目で持って行ったらしかった。

母親は九州訛りで「まあ、そんな大そうな。返って悪いですう」と恐縮して頭を下げた。純朴な田舎の人という感じだった。
このような母親からどうしてああいう小悪魔が生まれるのか、繁雄はまったく理解出来なかった。
もっとも人の家庭というものはパッと見ただけでは窺い知れないものがあり、思いもかけぬ暗部を抱えているなどと言うことはよくある。例えば母親の子連れ再婚で義父に玩具にされてグレている女子高校生、なんて話は通俗的だがやはりあることだと思う。

繁雄は携帯の電話をメモしたものを渡し、必ず連絡をくれるように頼んだ。ひかるが新しい携帯に登録している可能性はないだろう、とにかく自分に電話をくれとアピールする必要があった。
母親に妙な疑いを持たれると困るので、急いでいる訳ではなく何時でもいいですと付け加えた。気が狂いそうなほど焦っているのに。
母親が「じゃあ娘の携帯はこれです」と教えてくれるのではないかという虫のいい期待をしたがそこまで甘くはなかった。と言っても母親は娘の携帯番号など知らないということが後日明らかになるのだが。

憔悴しきった気持ちでなんとかアパートに帰りつき、夕食を食べる繁雄に碧はこう言った。
「とにかくどういう経緯で不妊治療のことを知ったのか知らないけど、このコは私のことをからかっているわけよね」
「どうして?」
「そうでしょ?『不妊治療頑張って下さい』なんて言い方がふざけてるわよ」
「でも不妊治療の実態を知らない人だったら言うかも知れないよ」
「そんなことないわよ。一度でも私とその話をしていたら別だけど、そんな事一切なしでこんな事書くのは馬鹿にしてるからじゃない」
「そうかなあ」
「そうよ」
碧は一番ナーバスな部分を土足で踏みにじられたような口惜しさの中にいた。
「どうしてこんな事言われなきゃいけないの、何の恨みがあるって言うの?人間とは思えない」
碧の怒りはとどまるところを知らなかった。

碧だけではないが女性が「攻撃モード」に入った時の活力というのかしつこさと言うのか、その集中力というものは凄いものがあると繁雄は思っていた。
男にはこれほどのしつこさはないが女性には例外なくあると感じられた。
もう横綱の土俵入りみたいなもので、不知火型とか雲竜型とかの違いだけで、後はまったく定型通り罵倒を完成させなければ気が済まないと思えるようなところがあった。

まあもちろんこれは怒って当然のことではあったが。
ひかるは何故こんなメモを入れていったのか。もちろん自分に対する報復だろう。かく乱戦術なのだろう。しかしそれにしてもどうしてひかるはこんな事を知っているのだろうと繁雄は思った。

産婦人科で偶然見かけたのでなければまさに産業スパイのようだと思った。やはりなんらかの組織の手先なのか。自分との情事も指令によるものなのか。しかし自分との情事で何を入手したと言うのか。
繁雄もまた碧に勝るとも劣らぬ混乱の中にいた。

その時チャイムが鳴った。
繁雄はドキリとした。碧が「はーい」と応えると「こんばんはー」と女の声が聞こえた。
ひかるの声だった。
繁雄は最悪の事態が来たことを覚悟した。
ドアを開けるとひかるは「お邪魔しまーす」と上がれとも言わないのに靴を脱いだ。

「ごめんなさーい。声が大きくて表まで聞こえてました。私って悪者になっちゃってますー?」とにこやかに言った。
碧はその人を喰った態度に怒りを倍増させた。



対決(3)

それからひかるが語り始めたことは驚愕すべきものだった。
不妊治療について喋ったのは碧だと言うのだ。それもひかるのことを口を極めて罵りながら喋ったと言うのだ。
碧は突然記憶喪失になったのかと思った。そんな記憶はひとかけらもない。
「何処でそんな事言ったって言うの?」と碧は聞いた。
ひかるは笑って「うーん、まあ奥さん自覚がないと思います」と言い「でも本当の気持ちを語っておいででした」と続けた。

「だから何処で喋ったって言うの?」碧はじれた。
ひかるはそれには答えず「奥さんは旦那さんに散々私の悪口を言った後、二人で海に向かわれました。『クジラのしっぽ』に。そしてお二人はラブラブ状態でキスをされました」と笑った。
碧は「あのレストラン?」と驚いた。

繁雄も思い出した。あの悟たちが堕胎する云々で来た時だ。碧が狂ったように反対したので、ノイローゼ状態を緩和しようと翌日食事に行った、あの時だ。
あの時ひかるも店にいたと言うのか。
そしてあの時散々悪口を言った内容と言えば堕胎をした女子高生についてだ。人間じゃないとまで碧は罵った。では、その女子高生がひかるだったと言うのか。繁雄は呆れてひかるを見た。

碧もまた記憶が蘇っていた。最初にアパートに来た時、妙に会ったことがあるような気がした理由はそれだったのだ。ただ病院では私服でアパートでは制服だった。その為に混乱していたのだ。変な中年男と病院にいた若い娘、それがこの子だったのだ。

「いえ、人の話を勝手に盗み聞きしたのがまずいし、別に馬鹿にされようと何しようと構いません。色んな人がいますからね。ただ私もあの時相手の男と別れ話の最中で、それがまたつまらない中年男でうまく話がまとまらなくて、イライラしていたら何の因果か見ず知らずの方に罵倒されちゃって」とひかるは皮肉っぽく笑った。
「それでヒマだったのかなあ、お二人の後をつけちゃったりして、凄いラブシーン見せ付けられたりしてたら、何か気楽でいいよなあこの二人はなんて思っちゃって」と更に笑った。

「気楽でいい?」と碧は言った。
「ええ、気楽ですよね。子供産もうと無邪気に頑張れるって」
「無邪気?」碧は怒りを抑えきれなくなった。
「無邪気じゃありませんか、子供を産むって」
「何言ってるの?」
「どうして子供産みたいんです?」
「どうしてって・・当たり前じゃない。人間としての、その、なんて言うの、自然の摂理でしょ?」
「はは、答えになっていません。特に私のように堕ろしただけで人でなしのように言われた者は納得出来ません」
「堕ろすことが正しいとでも言うの?」
「正しいかどうかは知りません。でも悪いとも言えないんじゃありませんか?」
「悪いことに決まってるじゃないの。ただ個々の事情があるから仕方なく許しているんであって哀しいことに違いはないわ、それが人間ってものでしょう」
「自然の摂理とか、人間ならこうだとか言われても困りますね。自然の摂理があるなら奥さんどうして妊娠しないんですか?妊娠しないってことが奥さんの自然の摂理なんじゃないんですか?」

ひかるの言い方は単にレストランで侮辱されたから怒っているというものではなさそうだった。もっと深い殺意に近い憎悪をこめて喋っていると繁雄は感じた。
その暗い情熱が何処から来るのか想像も及ばなかったが、ひかるはもう一度ゆっくりと碧に聞いた。
「どうして子供を産もうなんて思うんですか?」
「どうして?」

碧はこんな自明の事柄を質問して来る人間に会ったことがなかった。親戚知人全ての人が「いつ産むの?まだ?」と聞いて来たのである。自分もいつ産めるのだろうとそれだけを考えて来た。
ところが、今この目の前にいる小娘は「どうして?」と聞いて来ている。

産むという気持ち、切実な願いに理由が必要なのか?
返事のない碧にひかるは再び言った。
「子供を産むってそんなにいいことですか?」


対決(4)


碧は答えられなかった。
それは1+1が何故2なのと聞かれたようなものだった。
しかし個人的にはではなく概念的には考えねばならない局面は今まで多々あった。
つまり普通に妊娠し普通に出産したのなら恐らく殆どの人が考えないであろうことを、不妊治療者は考えねばならないことがよくあるのである。

例えば碧はタイミング法に排卵誘発剤を併用するという比較的「大人しい」治療をしている。だから自然に妊娠することと大差ない世界にいるが、不妊治療があるレベルに入って行くと不自然としか思えないと眉をひそめられる世界に入って行く。
人工授精ぐらいはまだしも、体外受精、ましてや非配偶者間の体外受精や代理母出産などという世界に入ると、何故そこまでして子供を欲しがるのかと言われる世界に入って行く。

子供を持つという自然観が一般常識から離れていく世界が出現するのである。
しかも現在の日本産科婦人科学会は体外受精を享受できる者を夫婦に限るとしている。事実婚のカップル、シングル女性や同性愛カップルは除外されているのだ。ということは暗黙のうちに子供を持てる者、子を産むとは如何なる価値観かということが決められているということである。

まして庶民的な価値観からみても、下手をすると高級車を一台買えるような金額を使ってまで子供を持とうとするのである。しかも成功するかどうか分からない。何故そこまでしてという疑問が自分にも他者にも湧き起こるのである。だがそれはお金には代えられないものであり、欲しいから欲しいとしか言いようのない世界なのだ。人間はそんなに明確な理由を持って生きているわけではない。

答えのない碧にひかるは言った。
「生まれてきてすみませんって言った小説家がいましたよね。太宰治でしたっけ?こういう生まれて来て困っちゃった人はたくさんいますよね。もともと生まれたくて生まれて来る人は一人もいないんだから。基本的に人の誕生は産む人の勝手ですよね。愛の結晶とか凄くいい言葉が溢れているけど、生まれる者にはなんの責任もなく、この世に出て来て右往左往するわけです。これって、あの評判の悪い国の拉致みたいなものですよね」

碧は「拉致?」と言った。
「そうです。拉致みたいなものですよね。拉致した国の人たちは究極的には良かれと思ってやっているのかも知れないけど、拉致された者はたまったものではない。泣いて現実を受け入れるしかない。これと殆ど同じですよね。いきなりこの世に命というものを拉致するわけですよね。そこに如何なる善意があろうと免罪されるものではない。そういう傲慢さを感じませんか」
「そんなことはないわよ。妊娠というものは調べてみれば分かるけど個人の意志を越えた神秘的なものよ。決して人間が勝手に産む産まないの問題ではなく、最終的には人智を超えた授かりものよ。自由にコントロール出来るものではないわ」
「そうでしょうか」
「そうよ。そういう身勝手な考えだから簡単に堕胎なんか出来るのよ。妊娠が自分たちの力だけで出来たという傲慢さがあるからそんな事が言えるのよ。甘ちゃんよ」
「ははは、あの時も甘ちゃんと仰ってましたよね私のことを。高校生で簡単に堕ろすような子はセックスや遊びなどの刺激だけを求め続ける人生の甘ちゃんだって」
「言ったわ」
「刺激だけを求め続けるものは結局刺激のインフレのような世界に入って行き、本当の人生の楽しさを分からないのだって。本当の人生の価値は慎ましい平凡な普通の生活の中にあり、刺激のみを追い求める世界にはないって」
「そうよ。今は豊かな社会で、まるで欲望を我慢することが欺瞞であるかのような世の中だけど決してそんなことはないわ。男性との付き合いにしたって、そりゃあ新しい人、たくさんの人と交際したほうが刺激が一杯でしょう。でも本当の幸せはそんなことの果てにはないわ。例え倦怠があろうとある種の無理があろうとひとつの関係を維持し育てていく、そういう平凡な営為の中にあると思うわ」
「ははは、奥さんそのような関係を築いていらっしゃるんですか?」
「築いてるわ」

ひかるは「ぷっ」と吹き出した。碧はムッとした。ひかるはもう一度ここぞとばかりに笑った。
碧は「何が可笑しいのよ」と怒鳴った。
ひかるは「築いてるんですか」と冷笑した。そして繁雄を見た。
碧は何故繁雄を見ると思った。
すると繁雄は蒼白な顔で下を向いていた。まるで碧の視線とひかるの視線が耐えられないと言わんばかりに。
ひかるは「築いてるんだってシゲちゃん」と高らかにもう一度笑った。
シゲちゃん。碧の目の前に真っ白な闇が広がった。
 

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